極上マリッジ 1






身体が痛い。あちこち痛い。
昨夜の酒のせいだけじゃない。
タクシーのシートに背を預けて、顔を両手で覆う。
昨日の出来事が、身体に残る生々しい痛みと一緒に思い出される。
あの瞳も、手も、声も、あたしの失恋を慰めるように、あたしを包んだこと。顔だってハンサムっていうかイケメン?
年齢はわかんないけど、同世代だったと思うわ。多分。
アッチの方も……。
ごめん、節操なしのビッチと罵られてもしょうがないかも。
いや、これでもあたし、自分はかなり一途で純情だと思ってたよ?
10代は恋愛に憧れがあったけど女子高だったし、見た目も性格も地味だったからそういう話は回ってこなかったんだ。
20代前半は仕事が忙しいのもあったし、結婚とか恋愛とかにあんまり夢を持てない現実があったし?
まあ、一度も付き合ってくれって言われたこと無かったーなんてことはないけどさ……気持ちが動かなくて、全部断っちゃったんだよね。
そこに現れたのが荻島でさ。
ここ数年片想いしてたのよ。

けど、片想いだなって思った瞬間、この恋は実らないかもって予感はあった。
そりゃ、あの寡黙で無愛想なあの男が、日和を想ってるのを目の当たりにしてたんだから。実らないって思うってば。
あたしだって、荻島のこと好きだった。
あいつは同僚だけど、三歳年下だったし、年上のあたしからアプローチなんかしたら迷惑かなって思って、告らなかった。
そんなあたしの気持ちは多分荻島は今も知らないよね。



――――小野崎さん。
――――な、なに?
――――新作なんだけど、ちょっと食べてみてよ。
荻島雅晴のごつい手が、皿をあたしの前に差し出す。
三歳年下の寡黙なこの男が作るスイーツは、繊細で鮮やかだった。
高卒で製菓の専門学校にいって、いろいろと欧州にも行ったらしいこの男は、イタリアンレストラン「Frutti di mare paradiso」でドルチェ担当。
あたしがここへ入店した時はその落ち着きっぷりに、年上かと思ったものだ。
――――あー、荻島さんの新作だー!
――――田端……。
――――日和ちゃん食べる?
――――え? いいの?
いいの? と云いながら、デザートスプーンをがっちり握る日和。
ギャルソンの制服はサイズぴったりのはずなのに、なんだかブカブカに見えるのは、日和が小柄で少年体型だからだろう。
――――洋ナシとブラッドオレンジのタルト! ビスケット生地が固め! フルーツ盛りがいいっ! 洋ナシの抑えめな甘さとブラッドオレンジの柑橘系の香りもいいし紅白おめでたーいビジュアル!
そう叫んで、一口、それを食べる。
――――うまーい!
――――田端、女子なんだから、そこは『おいしい』だろ。
荻島の鉄面皮が、そこはかとなく柔らかかったのを、あたしは覚えてる。
日和は、そんな荻島の視線に目をあわせることなく、ガツガツ新作のタルトをほおばっていた。
――――荻島さん、酒強いっすよこれ。
――――そうか?
――――味的には、大人の男にもいいけど、見た目がハデだから女子には受けると思うから、リキュールはもうちょい少なめがいいであります。
――――そうか?
デザートフォークを口にくわえたままそう云う日和を、荻島が優しく見ていたことも……。



ああ、あたし、あの時すでに失恋してたんだなー。
昨日の挙式で決定打を打たれたけれど。
なんでこんなことを思い出すのかって云うとさ、恋愛をするなら、あの二人みたいな恋愛っていいなあって漠然とした憧れ。
そのぐらいは想ってた。
なのに。
そんな失恋決定のヤツの挙式の三次会に、名前も知らない男とヤっちゃうのは、どうなのよ。
そうよ、もう30で、結婚は……結婚への賞味期限はもう切れてるし!
もしかしたら一度も好きな相手もできないかもしれない。
恋愛も結婚もできない。
このバージンのまま年をとっちゃうなら、今超絶、雰囲気MAXだし、この目の前にいるイイ男と一発ぐらいやってもいいじゃないのよって思いましたっ!
思ってるだけならいいのに、マジ、ヤッちゃいましたっ!
おそるべしアルコールの力。
しかも。

……昨夜が初めてだったのよっ……。

ああ、自己嫌悪。
その自己嫌悪の原因は、初めてを初対面の男とヤっちゃったっていう事実もそうだけど……。
それよりも……なんていうか、すっごく良かったっていうのがマズイ。
あたし、一度も経験なかったから自分のそういうところは気がつかなかったけれど、もしかして淫乱というかスキモノなのかしら?
いや、思い出すのはやめないと、余韻がまだ残る身体が…やばい……。
失恋の傷は男で治すとか聞いたことあるけどさ、荻島への想いとかやっぱり軽かったのかな。
昨夜のベッドの数時間の方が遥かに衝撃だった。
強烈な記憶の塗り替えに成功っていうのはいいんだけど……。
ああああっ。
マズイって。
相手はあたしが年齢くってるのに経験なかったの知っちゃったもんよ。
普通ならドン引きだ。
実際びっくりしてたもん。
でも、すぐに気を取り直して、こっちを気遣ってくれてた。
そういうところがまたいいよね、大人の男だよ。
多分、経験は豊富なんだろう。
慣れてるっていうのもあるんだろうけど、もう一つ一つが丁寧っていうか優しいっていうか……。
だから、こっちも、ホテルの部屋からこっそりと出てきた。
そりゃー、気まずいって。
どの面下げて顔をあわせりゃいいのよ。
普通、一晩泊って翌朝、相手と照れくさく微笑みあうってゆーのは、もう相思相愛のラブラブ恋愛中の関係よね。
ノリと勢いの大人の関係ならもっとクールでしょ?
けど、けど、あたし、まともな恋愛なんてこの30年してこなかったからわかんないわよ〜。
しかも初めてだったし〜。
どう対応すりゃいいのさ。
ヤッちゃった翌日に改めて名刺交換?
お互い経験豊富で身体の相性ばっちりだったら、連絡とりあって都合のいい時にまた会いましょうって?
無理無理無理!
そんな大人な関係、無理だから。
そこまであたし成熟してないって。
だったらせめて何も言わないで部屋を抜け出るしかないでしょ?
だって男の立場で考えて見てよ。
見た目年いってりゃ、それなりに経験あるだろーと踏んでベッドインしたらバージンだったなんてさー。
翌朝一緒に目が覚めて、女子高生みたいにモジモジしてる30ババアがいたらどーなのよ。
お願いです、瞬きしてる間に、この目の前の女がせめて10歳若返ってくれないかなって男ならそのぐらい思うって!
あんな一夜をすごしたあとに、そんなこと思われるぐらいなら、例え痛む身体を引きずっても自ら遁走するわ。
あー疲れた。
忘れよう。

全っっ部忘れよう。