極上マリッジ 2






「りかちゃんおかえり〜」
玄関先でちょこんと立っているのは、姪の優莉だ。
「……ただいま」
「おかえり、朝帰りなんて、聞いてないわよ、連絡ぐらいよこしなさい」
そう声をけるのは姉の莉紗だ。
……玄関に引き出物の紙袋をどさりと置いて、ヒールを脱ぐと、優莉が投げ出したヒールをそろえてくれた。ああ、ありがとう。優莉。優莉はいまお手伝いしたい時期になっているのだ。
幼稚園の年中になって、年少さんがこの春、幼稚園に入ってくるのを心待ちにしていて、もうあたしはお姉さんなのよオーラが日々の生活に滲みでてきている。
昨年はママと一緒がいいと喚いて、園バスに乗るのもごねていたが、今はしっかり黒いプリーツのつりスカートにジャケットの園服を着て、園バックを玄関前に置いて園バスを待つばかりの状態だ。
「スミマセン……」
「あんた、化粧もしないで帰ってきたの?」
「タクシー使った。顔をずっと伏せてたから運転手にもこの顔は見せてない」
「もーあんたねー」
「はいスミマセン」
「今はまあ純平君がやってくれてるからいいようなものの」
「はい、おっしゃるとおり」
「しょうがないわねーなんか食べる?」
「コーヒーを下さい」
「純平君が、クロワッサン焼いてると思うから、優莉、それもらってきて」
「はあい」
「すみませんね、オーナー」
「明日からバリバリ働いてもらうからね、パティシェ」
「うん」

実は荻島と日和ちゃんが結婚するって聞いてから、あたしは「Frutti di mare paradiso」に辞表を出した。
二人で仲良く職場でイチャつかれたらやるせないでしょ。
偶然にも姉が、カフェを経営していたので、あたしも微力ながら手伝うことにしたのだ。
でも、結局、荻島のヤツは結婚を機に独立するって、昨日の結婚式のスピーチで知ったんだよね……。
日和も一言、云ってってくれてもいいのにさー。

「ほら、顔を洗って、ダイニングにきてよ」
パキパキとあたしに指示を与える。
「ご、ごめん、シャワー浴びたい」
「飲み過ぎなんだよもー」
「……」
それもあるけれど、いろいろ事情があるのですよ、姉上。

そう、シャワーと一緒に、流し切って忘れてしまわないといけない事実があるのよっ。

下着とルームウェアとバスタオルをかかえてバスルームに飛び込んだ。
ゆるくウェーブかけた髪がとれかかってる。
そしてギョっとしたのは、洗面台の鏡に映った鎖骨の一部に内出血が見て取れた。
それを見た瞬間昨夜の出来事がものすごい早送りで脳内で再生される。
慌てて脱衣所からバスルームに飛び込んで、シャワーのコックを捻る。
心の中で「うわああああああ」と叫けびながら、髪を洗い身体を洗う。
忘れろ、消えろ、昨夜の記憶っ!!
そう祈りながら髪を洗う。
頭皮から泡と一緒にこの記憶流れろ!
内出血部分をナイロンタオルで擦りあげる。
シャワーを浴びた後でも、心臓はバクバク音を立てていた。



「さっぱりしたー?」
姉がコーヒーメーカーからコーヒーをマグに煎れてくれた。
「ま……まあ……なんとか」
さっぱりというよりは、力を使いはたして脱力。
「どうだった? 結婚式」
「ああ、まあよかったよ」
「ふーん」
ちなみに、姉、莉紗は、離婚歴あり……世間でいうところのバツイチである。
数年前にDVと借金まみれの旦那に三行半を突き付けて、離婚した。
娘をしっかり抱えて、旦那と分かれて、実家に出戻り、病気で入院していた父親の店を継いだのだ。
ちなみに20代結婚に懐疑的だったのは、この姉の結婚生活の影響が大きい。
ラブラブで結婚したはずなんだけど……相手の男の甘ったれのわがまま具合っていったら、もう。
眠れないっていっては大酒かっくらって、姉ちゃん殴って、ひと暴れして明け方ようやく大イビキをかいてるって生活だったらしい。
そんなのよく5年も続けたよね。
あたしだったら、その大イビキかいたところへ広げた濡れティッシュをそっと乗せてやろうっていうぐらいのレベルだわ。
一緒に生活してみないと人間わからないもんだよねー。
結婚も恋愛も独りでするもんじゃない相手がいて成り立つものだ。
その相手がいい男なのかそうでないのか判別するのって、恋愛経験値が低いあたしにできるのかって云われれば、難しい。
あたしと違って社交的で愛想のいい姉だって、失敗したのだから、あたしの鑑定眼なんてそんな上手く働くかね。
恋愛っていうフィルター越しに、相手の本質とか見極めるなんてさ。
かなり高等技術を要するような気がする。
けど、恋愛はいいかもしれない。
姉だって恋愛期間はものすっごく幸せそうだったし。
そこでまた昨夜の記憶が……。

「あんたも、そろそろ結婚してもいい相手とかはいないの?」
「ない」
「まあ、あたしが云えた事じゃないんだけどね」
いや、姉ちゃんは悪くない、悪いのは相手の男だって。
「恋愛はしてもいいけどさ」
あたしがぽそっと呟くと、姉が即座に聞き返す。
「なんだ、相手いるの?」
あたしは昨日の男を思い出した。
「……」
「れ? なーにー? 昨日そんな出逢いでもありましたかあ?」
「……」
「ああいう場ってさー男も女も、普段より二割増し良く見えんのよね、なんたってフォーマルな場だから」
「……」
二割増し……。
いや、あれ、二割減してもかなりイイ男だったかもしれない……。
「いた?」
「まあ……その……」
「えー! いたんだっ!!」
ぐっと身を乗り出す。
そこへ、焼き立てクロワッサンのいいにおいが漂ってきた。
真っ白いコックコートを着た、アルバイトの純平君がトレーにクロワッサンとバターロールをトレイに乗せてきてくれた。
駒田純平君は、亡くなったあたしたちの父が生きていた頃から、ここのバイトに入ってる。
ちなみ年齢25歳で独身。男にしては可愛い顔立ちだ。
近所の若い奥さまとか、優莉の幼稚園のママとか、幼稚園の先生とかにも、ひそかな人気があるらしい。
「おかえりなさい、莉佳さん」
「……ただいま」
「純平君聞いて、聞いて! 莉佳にもとうとう春がきたらしいよっ!!」
「へえっ、どんな人?」
「どんな人よ」
「……いや、その、いいかなって、思っただけで……」
「名前聞いてないの」
「聞いてない」
「たくもー奥手なんだからー」

いえ、あなたの妹は意外と奥手でもないようです。

あたしは、心の中で反論して、純平君が作った焼き立てクロワッサンに手を伸ばした。