HAPPY END は 二度 訪れる 6
本棚からは本が溢れ、飾り気のない部屋。
その部屋に似つかわしくないほど、華やかな深紅のバラがある。
本当は、おじいさまに捧げたかったクリスチャン・ディオール。
「このバラはキミの部屋にでも飾りなさい」
アルフォンスの言葉どおり素直にバラを受け取ったわけではない。
この花の件でも、『シゲクラ』への就職についても、あの青い目の外人のいいように動かされている。
バラを受け取りながら、さっきまで彼と交わしていた会話を思い出して、胸中は複雑な思いがあった。
あの外人は、この部屋に、バラを活ける花器があるなんて思いもしないのだろう。
そういうところは吉野と同じかもしれない……。
いや、吉野はわかっててやった。
珠貴が、貧しかったことも、シンデレラのようなおとぎ話にでてくるような王子を演じれば、すぐに夢中になるだろうと。
吉野に解消されたのは婚約だけじゃない。
『シゲクラ』への職も、吉野によって弾かれたのだ。
社員はそれこそ、珠貴が大学を出たら『シゲクラ』に入社するだろうと踏んでいた。
創業者である祥造がなくなった場合、すぐに二代目というわけにはいかないだろうが、早い時期に三代目としてオーナーに就任するだろうと予想していたのだ。
だから吉野が珠貴との婚約状態で二代目に就任した時は、吉野は血縁だし、珠貴の婚約者だからそれはありだろうと納得した社員はほとんどだった。
就任して先代の49日を過ぎるまでは……。
49日が過ぎると、珠貴のとの婚約と『シゲクラ』への正式入社を白紙に戻した。
これを知った社員達は驚き呆れ、そして珠貴に同情した。
が、声をあげて、吉野を非難する者はいなかった。
そんなことをすれば、多分一両日中に、退職願を出させるように仕向けただろう。
この不況に、誰も職を失いたくないのだ。
だから誰も庇いたてなかったことに、珠貴は納得していた。
生まれて初めて受けたおじいさまの庇護は強力すぎて、おじいさまを亡くして、独りで生活する為に、周囲から流されるようにして生きてきたけれど、でも、いい加減終わりにしたい。
だから、あんなことを彼に提言したのだ。
――――おじいさまのようになりたいの。
誰にも流されないだけの力が欲しい。
これから自分の身に降りかかる総てのことは、自分の力で、自分の意思で決めて、誰にも左右されないように生きていきたい。
自分に差し伸べられた、あの皺だらけの大きな手は、もうこの世にはないのだから。
自分を守れるのは自分だけ……。
どんなに甘いことを囁かれても、気持ちが揺れたりしない強さを手に入れなければと、珠貴は思っていた。
そして、今日、彼に逢ってその想いは強くなった。
電話口で、沙穂子がのぼせたようにアルフォンスのことを話してたのを思い出す。
彼女らしくないなと、あの時は思った。
でもそれも仕方ない。
吉野にも似ているタイプだけど、やっぱり下地が違うのかも。
吉野よりも、金持ちで吉野よりも、仕事のできる男。
女性を惹きつける要素を、彼はたくさんもっている。
おまけに吉野のように財産にガツガツとはしていないところがある。
洗練されているといっていいだろう。
それは認める。
けど。
――――キミみたいな花だね。
車の後部座席に置いていたバラを、珠貴に手渡す時に、そう云った。
彼のような男からそんな言葉を貰えば、どんな女性でもときめくだろう。
でも、珠貴は正直。
こういう言葉を照れもなく云えるなんて、やっぱりアメリカ人だ……。
そう思った。
というか実際、口に出した。
あまりにも小声で、彼の耳には聞こえなかったようだったけれど。
彼はたしかに素敵だ。
でも、彼に捕われては、きっとまた泣きを見る。
吉野の時のような轍は踏まない。
これから彼と一緒にいる時間は増えるだろう。
でも、彼は珠貴の上司だ。
それに。
――――亡くなった妻が、『シゲクラ』のファンだった。
……本当に亡くなってるのだろうか?
経済誌はそんなプライベートまでは書きたてない。
珠貴はノートパソコンを立ち上げて、その事実を調べて見ようと思った。
これから先、自分が教えを請う人物がどんな人間かを、最初から知るべきだ。見た目の印象だけでなく、客観的な評価を知るべきだ。
電源を立ち上げて、彼の名前で検索をかけるといくつかの、目にしたことがある会社名などがでてくる。
ほとんどが、英語なので翻訳ソフトでかけて記事を読んでみた。
いくつかの記事に目を通してから、珠貴はノートパソコンの電源を切った。
――――……事実だった。
1年半前に彼の会社は幾つか株価を下げ、業績が落ちていた。
それに関連して、彼の妻が亡くなったことが原因かと書きたてられていた。
――――そうよね、あの人は何もかも持っているのよ、わたしに嘘をつく必要はないんだから……。
彼は吉野のように、珠貴に対して、気をもたせるようなことはしない。
だからどんなに親しくなったとしても、それは仕事上の信頼関係以外の何物でもないだろう。
その証拠に、彼は自分の奥さんのことを「リナ」と呼んだ。
亡くなったと云いながら、まだ彼女が実在し、自分の傍にいるかのように。
――――今も、想ってるんだ……きっと……。
おじいさまがいない今、大好きな人が、傍にいないさみしさは、珠貴にもわかる。
まして彼は……奥さんを亡くしている。
そう思うと切ない。
自分が傷つきたくないからと、勝手に、パソコンで彼を調べた自分の所業がひどく恥ずかしかった。
テーブルに突っ伏して、深々と溜息をつく。
バラの芳香が、ほんのりと、鼻孔をくすぐる。
視線を足もとのバケツにうつす。
グレーのプラスチックのバケツに、似つかわしくない、バラの花束が活けられている。
――――わたしは……バラなんかじゃなくこのバケツだ。
ぶ格好で、花を引きたてることもできない。
――――バケツでもいい。
バケツは、こうして、たくさんのバラを活けられる。
バラは人の目を和ませるけれど、でもそれだけだ。
自分はもともと観賞用タイプの女でもない。
わかってる。
でも。
――――おじいさまのようになりたい……。
自分に手を差し伸べた祖父……それと同時に、今日逢ったばかりの彼を思い出す。
そう。
吉野よりも、おじいさまに似ているのかもしれない。
おじいさまが若い頃は、きっと彼のようだったに違いない。
だから祖母は惹かれたのだろう。
おじいさまに、きちんとした妻がいても……。
あんなに人を惹きつけるバラのような人にはなれないだろう。
でも。
バラを抱えられるような、花器になろう。
総てを抱えられる器の人間に……。