HAPPY END は 二度 訪れる 5




「じゃ、交渉成立だな」
握手を交わした後、彼はそう云った。
「車で送ろう。えーと住所は……あれ、ミズ江波は二つ書いてある」
沙穂子から受け取ったメモを胸ポケットから取り出して開く。
「マンションの方です。家の方は、今不動産の管理下にあるので。でも、大丈夫です。一人で帰れます」
「何故、マンションに?」
車で送るという申し出を固辞する珠貴の言葉をスルーして、アルフォンスは、尋ねる。
「あの家は……家というよりも館でした。一人暮らしするのには、あまりにも経費がかかりすぎます」
長年、住み込みで働いていたハウスキーパーの園田さんと運転手の梶本さんは職場を吉野の家に職場を移した。
去り際、とても名残惜しそうではあったし、今も時々、園田からは、携帯に電話が入ることもある。
自分がもし、あの時『シゲクラ』を継いでいたら、二人をそのままあの家に置いておけたかもしれない。
けれど、あの家に住み続け、二人の給与を支払えるか、あの時の珠貴にはとてもそれができるとは思えなかった。
だから……吉野の家へ二人を譲ったのだ。
「……なるほどね。では、明日、車で迎えに行くことにしよう」
「明日っ!?」
まさか昨日の今日で『シゲクラ』に戻るとは珠貴は思わなかった。
「そうだよ、明日からキミは僕の下で働いてもらう」
「でもバイトが!」
「断ってくれ」
今やっているバイトをすぐさま辞めろということだ。
今のバイトは楽なバイトではない。
それでも、仕事が決まった時は嬉しかった。
だから一生懸命にやってきて、その姿勢は、周囲にも認めてもらえるようにはなってきたのに……。
事前に退職の話をするのならまだしも、昨日の今日で辞めるということは、物事を途中でほうり投げだすことだと彼女は思っている。
バイトへの緊急の退職は、珠貴の性格上、難しいことだった。
逡巡している珠貴を見てアルフォンスは思う。

――――まじめなんだな。いいことだ。

さっき珠貴に云った――――『責任』があるという言葉に反応したことでもわかるが、彼女はとても真面目な子だ。
そして、この子は言葉数は少ないものの意外と表情が豊かだ。
感情を押し隠すようにみえる黒い瞳だが、アルフォンスの言葉に反応するたびに輝きが違う。
「キミは、トップに立ちたいんだろう? キミのおじいさまのように」
「はい……」
「まずは、交渉してみることだ」
この先、無理難題な取引先と駆け引きしていくためにも。
バイトへの退職はそのレッスンと思えばいいと、アルフォンスは云う。
多分、バイト先への退職願いは、ごり押しするしかない。
相手方に何を云われても、仕方ない。
「わかりました」
「よし、そうと決まれば、車で送ろう」
「いえ、いいです」
「質素倹約はいいけどね。これは必要だよ、珠貴。キミは僕と組んで、『シゲクラ』のフロントに立つんだから。誰が『シゲクラ』なのか。それは対外的に、会社の再生にはとても重要なことだから」
「ミスター……」
「アルフォンスだ」
アルフォンスは珠貴の顔を首をかしげて覗き込む。
年齢より若く見える彼。
そして、何よりも印象的なブルーアイズに、珠貴は釘づけになる。
物心ついた時に父親は死別して、珠貴の周囲に男性の存在はなく、学校にあがると身近に接するクラスメートの男子達は一様にうるさく、乱暴に見えて、あまり接したくないタイプの子達ばかりで関心はなかった。
母親にまとわりつく金貸しの取り立て屋も、嫌悪こそすれ、親しみなんかは持てなかった。
世の中の男性は、みんなそんなもんだと思っていた。
吉野は、そんな珠貴を言葉巧みに騙した。
耳触りの甘い言葉を投げかけることで、少し臆病な珠貴の気を惹く。
それだけでいいと、吉野はわかっていたのだと、珠貴は今になって思う。
当時の珠貴のような異性対して、ウブな娘はそれだけでいいのだ。
自分に気を惹きさえすれば、あとは、もう恋に恋するようになろうだろうと踏んでいたに違いない。
だから吉野は、自分の本当の恋人の機嫌を損ねるような好意を……キスやそれ以上のことを珠貴に対してする必要がなかった。
結局、珠貴にとって、敬愛する男性は、やはりもう、「おじいさま」だけだったのだ。
でも、おじいさまは珠貴の傍にはもういない……。
「アルフォンスと呼んでくれ珠貴」
そう云って、珠貴に微笑む。
その笑顔を見ると心臓の鼓動が速くなっていく。
血液が逆流するのがわかる。
顔が赤らまないように、必死で平常心を保とうとした
「だから、珠貴、僕はキミをそう呼ぶよ。OK?」
低く柔らかく囁くように彼はそう云った。
 
結局、珠貴はアルフォンスに車でマンションに送ってもらった。
一応、マンションではあるものの、どちらかというと、小さな事務所や会社、時には会社の倉庫として利用されているのがほとんどで、警備員は日中いるが、住み込みや宿直ではなく、夕方には自宅へ戻るらしい。
若い娘が居住するにしてはセキュリティが甘いようにも感じられた。
「……ここで……一人で?」
「はい」
ペンキの剥げたドア。
純粋な住居用マンションだったら、何度か塗装工事が入ってもおかしくはないが……3分の2以上がオフィス兼用なので、きっとその辺は管理的に後回しになっているのだろう。
「危なくない?」
「え?」
「セキュリティが……夜は警備員もいないし」
「ということは、夜はここ人も少ないってことで、逆に安全です」

――――って、云うけど、何かあったら助けを呼べないんじゃ?

アルフォンスは眉間に皺を寄せる。
「1年半暮らしてますが、大丈夫。鉄筋コンクリートの5階。バストイレ付き、上等ですよ。もっとすごいところに住んでいたこともあります」
アルフォンスは知らない。
珠貴が『シゲクラ』の創業者の孫娘であっても、その半生は金銭的に貧しく苦労していたことを。
だから珠貴は身を飾ることも知らない。
年頃になれば、おしゃれに目覚めるだろうが、それどころではなかったし、祖父と暮らしていたいた時も、祖父から貰える普通のお小遣いが心苦しくて、バイトと称して『シゲクラ』で雑用をこなしていた。
いつもジーンズにトレーナー姿で、家具を拭いたり、オフィスを清掃したり『シゲクラ』でバイト。そして得たお小遣いはバイト代としても破格だった。
「マンション前に駐車してある車、レッカーされる前に、戻った方がいいですよ」
「……わかったよ、明日は少し早いけどいいかな?」
「ええ、この一年半、わたしはすごく早起きなんですよ、ミスター……」
珠貴の唇に、アルフォンスは人差指をたて、軽く触れる。
「……アルフォンス」
珠貴がそう云うと、彼は満足そうに微笑んで、ドアを閉めて立ち去ったのだった。