Delisiouc! 29
「退院できてよかったですね」
「うん」
数週間後、彼女は無事に退院できた。
午後の退院にしてもらって、夕方、出先から直接病院に向かうことが出来て、よかった。それなりに荷物もあるから、一人じゃ大変だよね。どうする気だったんだろう。
「ね」
「はい?」
「オレがいなかったら、この荷物どうする気だったんです?」
紙袋四つはあるよ。
重さはそんなにないれど、かさばるし。
タクシー使うにもちょっと距離があるから躊躇うし(今、タクシー高いからなあ)
「コンビニで宅配頼むか、タクシーで帰るかな」
「タクシー高くない?」
「郵送料と自分も一緒の交通費ならいいかなと」
「なるほど」
「明日から仕事」
「……」
「なんかそう思うと怠けたくなるよね」
お。珍しいね。そんな台詞。
仕事大好きなくせに。
「怠けてもいいよ」
「また甘やかすー」
甘えてください。
年下で甲斐性ないけど、それぐらいはしてあげる。
「このままうちに来ません?」
「?」
「実は昨日から仕込んでるし、一緒に夕飯しませんか?」
「……いいの? あ、でも、荷物」
「それこそ、コンビニで郵送にしましょ」
俺たちはコンビニで郵送の手続きをして店を出た。
そして、そこで動きが止まってしまった。
「……」
オレの顔を見てる彼女は、オレの視線を追う。そして、今度は彼女の動きが止まってしまった。
「……谷村君……」
病院のエントランスに立っていたのは、谷村氏だった。
妹さんのいうところの、薫さんに強烈にアプローチしていた人で。
友人に不当な形で奪われた人。
彼女が多分、好きだった人。
そして今も好きかも知れない人。
そして相手も……多分、薫さんに気持ち残してるんだよね。
最初は結婚してるのに、薫さんにちょっかいかけてそれってどうなの? 薫さんの片想いにつけこんで、奥さんがいたって、恋愛気分も楽しみたいって人なのかなって、先入観があった。
でも、この人は……あの時、薫さんが引かなかったら、どうしてた?
そりゃ、薫さんの友人だけを攻められないけど、でも、彼も嵌められたんだよね。
薫さんがもっと恋愛に対して情熱的な人なら、例え友人がそういう手をつかっても(いや、そういう手を使うからこそ)居直って、この人と恋愛してたもしれない。
そしたら……。
そしたら……この人だって、今の自分の奥さんを振り払って、薫さんの手をとったのかもしれない。
それは今もそうしたいって……気持ちが……あるから……。
ここに来たんだろ……多分。
美緒子ちゃんは過去の恋は風化するでしょって云ってたけど、風化してなかったら?
生々しく残っていたから、十年経ったつい最近、後悔するような時間を彼と過ごしちゃったんでしょ?
妹さんの話を聞いても譲らないつもりだったけれど、実際にこうして会っちゃうと、その気持ちは揺らぐ。
オレの方の自信の無さがこう気持ちの中で広がりをみせるというか。
オレは確かに、薫さんが好きだし、大事にしたいし結婚したい。
けど、それって、相手あってのこと。
薫さんは本当にオレのこと、好き?
オレが想うように、薫さんはオレを想ってくれる?
そういわれると、自信はないよ。
オレの存在よりも。
過去の恋の方が、断然、重いだろ。
オレは彼女を見る。
つりあわないのはわかってる。
高嶺の花だってわかってる。
だけど手を伸ばせばつかまる距離。
手を離さなければ、ここにいてくれるとは思う。思うけど……。
笑顔の向こうに、切ない叶わなかった恋の名残が絶対にあるんだ。
オレが幸せにしたいけど……。
この恋が、彼女の最後の恋なら?
何もかも捨ててもいいほどの、情熱が少しでも残るなら……。
オレはゆっくりと手を離す。
手を離した瞬間、彼女はオレの顔を見た。
驚いたような顔をしていた。
「話、きちんとした方がいいと思うよ」
声、震えてないだろうか。
オレ、今、ナニ云っちゃってんの?
ありなの?
ここでどうして手を離すの?
絶対後悔するってわかってるのに、どうして手を離すの?
だって、オレ好きなんだもん、この人。
幸せになって欲しいから。
オレの手で幸せにしたいけど、この人はオレよりもなんでも持ってる。
オレの手なんていらないぐらいのモノはたくさんあるよね。
オレは料理を作って薫さんにニコニコ笑って、「美味しいね」って、云って欲しい。心の中で幸せだねって付け足して欲しい。
美味しいもの食べる時って幸せじゃん?
でも、今、この場で彼女を連れ帰って、オレの手料理食べて貰っても、きっと幸せそうな顔で「美味しいね」って云ってくれない。
賭けてもいい。
彼女は大人で優しいから「美味しいね」って云ってくれても、その言葉を言った心のどこかで彼のことを思う。
幸せだねって……きっと思ってくれない。
オレは彼女の顔を見つめる。
フレームレスの眼鏡がよく似合って、綺麗で、大人で、どこか冷たい感じがするけれど、笑うと幼くて可愛い顔。
「じゃあね」
網膜に焼き付けて、オレは足早にその場から離れていた。
マンションに戻っても、飯の仕度なんてできなくて、ただぼんやりと過ごした。
ベランダに出て。日が傾いて、暗くなるまでそこにいた。
これが休日で倉橋がいたら、「そこで飛び降りる気か?」なんていわれるぐらいには。
そんな何時間もそこにいた。
「たーだーいーまー」
美緒子ちゃんの声がしたのはなんとなくわかる。彼女は一人でも賑やかだ。
「れー?」
薫さんの為に用意した夕食、美緒子ちゃんに出さないといけない……でも、身体がベランダの手すりから離れない。
「誠ちゃーん?」
カラっとオレの部屋の引き戸を空ける。
「いるじゃん。なにーどったの?」
ずかずかと入り込んできて、ベランダのドアを開ける気配がするけれど、振り返って彼女の顔を見る気力もない。
「誠ちゃん……」
ひょいっとオレの顔を覗きこむ。
「……」
「コーヒー煎れてあげようか? あたし意外と上手なのよ?」
彼女はオレの頬を両手で挟む。
「……」
一人で咽び泣いてたんだと、彼女に頬を挟まれるまで気がつかないなんて、かなりダメージ受けてるんだな。
ようやく手すりから手を離して、ガチガチになってる指の関節を動かしてみる。
「ずっと、ココにいたんだ?」
彼女の質問には答えずに、オレは美緒子ちゃんを抱きしめる。
暖かくて、柔らかくて、甘い香りがする。
どうして女の子って抱きしめるだけで気持ちいいんだろ。
いきなりなオレの挙動に、美緒子ちゃんは動揺することも無くて、ポンポンとオレの背を叩く。
ウェーブがかかっって、綺麗にカラーリングされた髪の柔らかい感触がオレの頬に当たる。
人のこと言えないけど、美緒子ちゃんは本当に華奢だ。
肩なんて薄くて細い。
額を擦るだけでわかる。
「好きなんだ……」
「……」
「幸せにしたかった……」
「あらあ、あたしのこと?」
おちゃらけて彼女は呟く。
「……」
ホント、こういう人だよ、キミは。
「幸せにしたかった……って、なぜ過去形?」
「オレはやっぱり駄目だ。頼りなくて気が弱くて情けなくて」
「……」
「思ってた以上に駄目駄目だ」
オレがもっとしっかりしてて自信があったら、手を離さなかったな。
彼女はオレのことを好きでいてくれるって、他の誰より自分で信じることができたら、離さなかった。
美緒子ちゃんの腕に力が入る。
「……美緒子ちゃん……もう、帰った方がいいよ……オレ、今日なんにもできないし」
「いいよー別に」
「よくないよ」
しがみついてるのが、ベランダの手すりから、美緒子ちゃんの身体に代わったら、その感触の心地よさに、脳みそヤラレテ、ナニをしでかすかわかんない。
そんなオレの気持ちを読んだかのように彼女は言う。
「ゆったじゃん、全身で慰めてやるって」
「……」
それは、オレがそんなことしないって、たかくくってんの?
それとも、マジでOKなの?
オレは彼女を抱きしめたまま、自室のフローリングの床に引き倒す。
びびって叫ぶかと思ったけれど、そんなことなくて、彼女の顔を見ると、怖がってることもなくて、綺麗な顔で余裕で笑ってるし。
「じゃあ、慰めて」
「うん」
美緒子ちゃんの唇に自分の唇を近づける。
で、あと数センチのところで、オレは気がつく。
……でもコレじゃあ、薫さんが好きだった人、谷村氏とやってること全然代わらないよね。
谷村氏も、きっとこんな気持ちになったんだろうな。
そこに、あゆみさんの悪意というか好意というか、何かしらの思惑が絡んでいたとしてもだ。
薫さんを思う気持ちは本当なのに、自分の中ではそれは真実なのに、彼女には……薫さんには届かなくて……近くにある癒しに手を伸ばすのは……。
彼女への裏切り……。
自分の気持ちへの裏切り……。
ギリッと歯軋りがするほど奥歯を強く噛み締めて、美緒子ちゃんから離す。
手の中にある暖かさや柔らかさを放すのは、本当に断腸の思いだけど。
ここで本能のままやったら、オレの性格だとあとあとずっと後悔するに決まってる。
オレの態度の美緒子ちゃんはびっくりしたように目を見開く。
「……誠ちゃん……」
「ご飯、つくってあげるから、二時間後においでよ」
「……」
「ね?」
オレはむりやり笑顔を作って、そういうのが精一杯だった。