Delisiouc! 8
食事を作った後の包丁の手入れは欠かせない。
専門学校に入った時に購入した包丁セットを1本1本丁寧に研ぐ。
これを初めて見た時、オレは今まで新しい事に取り組む時に抱く不安より、期待感が強かった。
オレにしては、珍しいことだとその時は思った。ほんの少し、前向きでやる気がでていると自分で感じた。
セットを見て、そのやる気を出したのはいいのだが、洗礼はある。
ステンレス製のものとは違う、切れ味。
包丁は刃物、刀なのだと認識する流血沙汰は、誰でも1度は通る。
オレは学生のころから料理してきたし、刃物の扱いも慣れていると思っていたけれど、1回はやっちまってる。しかし、ここでびびっていたら料理人にはなれないのだ。
職人は、オレがちんたら学生していた時に、すでにこういう刃物の研ぎ方を教わっていたんだ。
「誠ちゃん、何作ってんの?」
ひょいとオレの背後から、手元へと顔をのぞかせたのは折原さんだった。
キミはさっき食べたでしょ。倉橋は本日残業。
本日のメインは刺身だった。倉橋の分の刺身はとっておいてある。
脂がのったヒラマサだ。倉橋は好きだろう。折原さんも猫のように食べてくれた。
「包丁のお手入れ」
今日は刺身だったから、柳刃包丁を手入れする。刃渡りが長く、そして薄い。包丁の中でも繊細な作りだと個人的に思っている。
「それで、どうなったの?」
「何が」
「飲み会よ、課長とはどうなったの? 訊いたんでしょうね、彼氏がいるかどうか、ちゃんと帰り道送ってあげた?」
「それは……多分……付き合ってる人はいなさそう……で、帰りは逆方向だったし」
折原さんは眉間に皺を寄せていく。
「ばっかじゃないの!? 帰宅方向が逆でも、気になる彼女を送り届けるのは男のマナーよ!」
耳を塞ぎたいけど、包丁を片手にそれはできない。
子供が叱られたみたいに目を閉じて、折原さんのお小言を拝聴した。
「だって、課長は他の女子と帰宅方向が一緒で……」
「そんなの、関係ないじゃん! 一緒にまとめて送っても、最終的には課長だけを送ればいいのに!」
なんか……経験談ですか? そういう扱いはされてそうだもんね。
「まったくどうしてそうなのよ、そういうところでアピらないと、気付いてもらえないよ」
そんなもんかな。
「少しは頼り甲斐はあるって、思ってもらいたいじゃん」
「少しは……頼り甲斐……か」
「?」
「オレはやっぱり乙女系なわけだ。そこがキモイのかな」
「はい?」
「飲み会で云われた、オネエ系だとか乙女系だとか、そこがキモイのかなって。男として見てもらえないみたいだし」
送り届けても、頼り甲斐とはきっと程遠い。
ふと、視界がぼやける。耳にかかるフレームの重さがない、折原さんに眼鏡を外された。
ちょ、包丁持ってるんだよ、あぶないってば。オレは手を止める。
「誠ちゃんは、可愛いから、そう思われるだけだよ」
ギュっと細い腕がオレの腰を抱きしめてくる。
「お、お、お、おりはら……」
「美緒子って、呼びなさい。6年も一緒にいて、名前も呼ばない男は誠ちゃんだけだよ」
脇に、折原さんのや、柔らかい身体の一部が当たる……ちょ、ちょっとまて……。
シャンプーの匂いなのかフレグランスなのかわからないけれど、甘い香りがする。
「男として自信がないっていうなら、あたしが、自信つけてあげる」
「ちょ、ちょっとまて、あのっ、眼鏡っ、しかも手、手!」
「何が?」
「オレ包丁持ってるし、危ないから離れ! あ!」
「美緒子って云わないとダメ」
ギャー! どこを、どこを触ってる? ヒトのシャツたくし上げて、何をする気だ?
「だから、包丁持ってるし!」
「うん、あたしに傷とかつけたくないなら、そのまま動かないでね」
「あっ」
折原さんの手が、指がシャツをたくし上げてオレの胸を這う。
「ダメ……何する……」
「だーかーらー。自信つけてあ、げ、る」
何を――――――!? なんの自信だ!? まさかとは思うがそっちの方か?
ジーンズのベルトもスナップもファスナーも、驚くような素早さで緩められる。
「いっつも、美味しいごはんを作ってくれるし」
それは勉強ですから! てか手―――――! 指っっ!! どこをどこを触って!!
「あっ……」
「誠ちゃんはキモイとか思ってるけど、全然そうじゃないよ……ちゃんと、男だよ」
下着越しに指が!
「ダメ……折原さん……」
「美緒子」
「美緒子ちゃん……ダメ……」
「なんで、ダメ? すっごく気持ち良くしてあげるから――――――」
それは確かにそうかもしれない。けど。ダメだろう。
この子は好きだけど、こういうのとは違う。
「好きな子じゃないと……あっ!」
「美緒子のことキライ?」
甘く梳けるような囁きが耳ダイレクトに伝わる。
絶妙な力加減で布越しに、オレ自身を握られた。
掌に緩急をつけて、繰り返される愛撫。
だめだろう、こんな簡単にやっちゃうのは。
「オレは好きな人が……」
「誠ちゃん、シタことないなら、いざって時の為にやっておくのもいいかもよ?」
それじゃ、アンタはどうなるの――――――? 男のオレはいいけれど、キミはリスク満載だ!
失敗したらどうなるの!? てか、オレ的には断然失敗の確率高くね?
「美緒子ちゃん……お願いだから……」
「うん?」
「やめ……」
「この状況でまだ云うか。このヤロウ」
「あっ! ちょ……だめ……」
布越しではなく直接素肌に、ゴムを潜り抜け様とした指がピタっと止まる。
オレは彼女がキッチンの入り口に顔を向けて、動きを止めた。
動きが止まったのは安心したのもあったけど、正直に言えば、身体はどこかそわそわ気味だった。そりゃこれだけやられれば、普通なら最後までやっちゃうだろ。
で、凍りついたのように動かなくなった美緒子ちゃんが顔を向ける方向に視線を走らせる。
瞬間……。
オレはトンでもない声をあげた。
どうして、そこにいる、いつから居る!? ただいまぐらい云え―――――――!!
「何やってんだ、おまえ等」
美緒子ちゃんオレの肩越しに盛大な舌打ちをする。
舌打ち!? なぜそこでそういうことができるの!?
もしかしてこの子やってる最中、人に見られて全然OK?
そりゃー仕事で肌を露出することもあるだろうけれど、こういう行為も平気なわけ!?
「もう少しで、デザートを頂けたのに」
ボソと美緒子ちゃんが呟く。
デザート!? なんという表現。
「降矢、お前、なんで為すがままなわけ?」
「……だって、包丁握ってるし……」
「包丁離せばいいだろうが」
離したら最後だろうが!
いっくらオレが我慢強くても、両手がフリーになったら、この凶悪にエロ可愛い友人とあっという間に一線越えちゃうでしょーが!
そうするとこんな会話できねーよ。
オレのことだから悶々と考え込んじゃうだろ。今、片想い中なんだよ、好きな人いるんだよ、それとは別にこういうことは平気でできる人間と違うの!
「誠ちゃん、受け身だからー襲いがいあるんだもん」
オレはようやく包丁から手を離して、乱された衣服を整える。眼鏡がない。
「眼鏡は? 眼鏡ないと……」
「ほら」
彼女がオレに眼鏡をかける。
「見えてないほうが怖くないカナーと思ったんだけど」
「何が?」
「いろいろ。見えてていいなら、眼鏡したままで今度やってみる?」
そんなことよりも。からかわれてもいい。トイレに行かせろ。もう、勘弁してくれ。
倉橋がコンポのリモコンでラジオを切って、TVのリモコンを手にして、適当なチャンネルを合わせ始める。
オレは素早く、倉橋の夕飯をテーブルに出して支度をしてからダイニングを離れた。
「美緒子、あんまり弄るな」
すれ違いざまに倉橋が彼女を窘める。
「悔しいの? あたし、身体張った甲斐あったよ、名前呼びしてもらったもん。慎司とは違うもん。慎司なんて名前呼びなんて一生されないもん。てかあと5分あったら陥落したのにさー」
「だってよ、降矢」
彼女の言葉に、ガックリと力が抜ける。
「名前呼びをして欲しかったらそう云って」
こんなことすんなよ。まったくもう……。