掴まえたい五つのモノ 僅かな勇気




どうして、彼は、傍にいるんだろう……。
日も傾いた図書室で、目の前に彼がいたときは、治ったはずの心臓が、壊れるんじゃないかと思うぐらいに驚いた。
場所が場所だけに、大きな声も出すことも躊躇われた。
だから、寝起きを装うことが出来たと思う。

「……篠塚……部活は?」
「今日はない」
「……どうして?」
「先週末が、地区大会だった」

大会後は少し休みを入れる。と彼は呟く。
彼はこんな声だったのだろうか? その声は、大人の声だ。
私が何年か前に、声をかけた時の篠塚のものじゃない。
その姿も、私の知る彼じゃない。
そんなに背が高いのはずるいじゃないか、健康な身体、バスケ向きの身長。
私が望んで欲しかったものが、そこにある。目の前にある。
バスケを始めた時。
女であることと、どんなに心血注いでも、将来これで生活できないだろうという現実を知った時、少し泣いた。
そして、普通に生活するにも、問題が生じてくるだろう身体であることを知った時は、何も考えられなくなった。

――――――私は、彼のように生まれてきたかった。

その彼が、私を労わる。
どうしようもない、やりきれない感情に包まれている私を、目の前にいる彼は知らない。
どうして彼は、私にそんなに固執するんだろう、放っておけばいいのに。
こうして、空調の効いている図書室で、私の肩に上着なんかかけないで。
キミにそんなことされると、どうしようもなく憐れんでもらっているような卑屈な気持ちになるんだ。
歪んでる私の性分が悪いんだろうけれど……、本当に、いやなんだ。
どうして気がついてくれないんだろう。
そんな内心を悟られないように、きちんとジャージを畳んで、篠塚の前に差し出す。

「ありがとう」

篠塚は黙ってそれをスポーツバッグにしまった。。
彼を見ると推理小説から視線を離して、私をまっすぐに見つめる。
そんなに見つめられても、私は何もできないのに、何かを期待されているような、そんなプレッシャーさえ感じる。

「陽菜ちゃん、知らない?」
「いや、見かけないが?」
「捜してくる」

あのまっすぐな視線に、対抗なんてできない。
口実を作って、逃げるのがいい。
私は陽菜ちゃんを捜しに、椅子から立ち上がった瞬間。身体をほんの少し支える。
立ち眩みだ。
篠塚に、気づかれたくない。
こんなちょっとの貧血でも、彼は私を心配するるような表情で、私を見るのだ。
その度に私はまた悔しい想いをする。
幸いにこの貧血はすぐにおさまってくれた。
できるだけ静かに図書室内を歩き出して、陽菜ちゃんの姿を捜す。
幾つかの本棚の間を見て回ると、彼女が飛び出す。

「あの、あの、ユキさん! あたし、忘れ物しちゃった、教室に戻るから」

彼女がそう云う。なんだかとても慌てた様子で。

「付き合うよ?」

そう、付き合うよ。
この場から逃げたい。
陽菜ちゃんの用事に付き合って、篠塚から離れたい。
なのに。

「い、いいから、いいよ、さ、先に帰ってて」

いつもの彼女らしくない、歯切れの悪い、どこか慌てているような言葉が気にはなった。

「なんで? 待つよ?」
「いいの、待たなくて、あ、メールきた」

彼女は制服のポケットに手を入れて、携帯を取り出して、その小さな画面を覗きこむ。

「ごめん、ユキさん、先に帰ってて」

陽菜ちゃんは慌しく、鞄を置いている机に戻る。
そして、その陽菜ちゃんの気配に、篠塚は気がついて、彼女を見上げる。
その時の陽菜ちゃんの表情は、自分が好きな人と視線が合って、嬉しくてはにかんだ感じ、でも、どこか泣き出しそうで、切なかった。
陽菜ちゃんは……篠塚が好きなんだ……。

ねえ、篠塚。

キミはこういうオンナノコと普通の恋愛をすればいいのにね。
ポンコツの身体をひきずって、キミのすべてに嫉妬して、卑屈な感情にまみれている私にかまうよりも、その方が断然いい。
明るくて可愛くて健康で、申し分ない。健全だ。キミに良く似合う。
誰が見てもそう思うに違いない。

なのに……どうして……。

篠塚は立ち上がって、文庫本を鞄にしまい、自分の荷物と、当然だというように、私の鞄を持つ。

「帰るぞ。葛城」

どうして、私に声をかけるんだろう。
無視して帰ればいいじゃないか。
私は自分の鞄を彼の手から雑に奪い、図書室を出ていく。
早歩きで、篠塚から距離を取りたい。
そんなことをしても、あまり意味はないのに。
この数分後のことを、予想できる。
ちゃんと私が靴を履き替えて、正面玄関を出たら、彼がそこに立って待っている。
だから今、こうして早歩きで距離をとっても意味がないことも、わかっている。
だけど私は、彼に向き合いたくない。
なのに……どうして……。
私の予想通り、彼は、正面玄関で待っていた。
そして、私に手を差し伸べる。
その仕草はあまりにも自然で、ついうっかり私もその手をとろうとしてしまい、はたっと気がつく。
手をつなぐなんて、ありえないし。
私が自分の手を引っ込めようとした瞬間。
ガシっと、その手を掴まれた。

頭に血が上る。

なんで、なんで、手なんか……。

「他の奴等には平気でスキンシップをとるくせに、俺には手も握らせないんだな」

篠塚の声がする。
薄いレンズ越しの切れ長の瞳が澄んでる。すごく、綺麗だった。
言葉にしてしまうと、篠塚なら、「男に対して使う形容詞じゃないな」と、云うに決まっている。
でも、手を繋ぎながらも、会話は結局、篠塚が改革したバスケ部のコトだ。
話を聞くことで、私は、バスケができないだと、改めて口にださずにはいられない。
なのに……。

「ベンチに……いてくれるだけでいい……」
「篠塚……」
「……葛城が出したパスを受け取るときのように、俺の背後に葛城がいれば……、どんなにバランスを崩しても、シュートが入ると確信できる……」

キミは自信に溢れてるじゃないか。
恵まれた体躯、才能、努力もしてる。
そんなキミがどうして、何もデキない私を必要とするんだ?

「ちょっと待て、待て、篠塚」

信じられない。やめてくれ。そんなことを云わないで。
頼むから。

「俺がお前の代わりに飛んでやる」

ちょっと待て!!
なんだそれは!?
誰が頼んだ。私の変わりをしろと、誰が云った?
私は望んでない! いくら、キミが素晴らしいプレイヤーだとしても、キミはキミでしかないのに!
誰も誰の代わりになんかなれないのに!

「こういう云い方をするとそういう表情するとだろうなとは、思っていた……お前は、全部自分で手に入れなきゃ気がすまない奴だから。同情されたり、憐れんだりされるの、お前は大嫌いだからな」

やっぱり、悔しい。敵わない。
かっこよすぎるじゃないか。
そんな科白、どうしてサラッと云えるんだろ?

「嫌われても―――――いいんだ……、距離を置かれて無視されるよりは」

篠塚はそういうと、私の手を包み込む力を少し強める。
私は――――――バスケが出来なくなってから、ずっと、逃げてきた。
バスケにも篠塚にも背を向けてきた。
だけど。
彼は、総てに対して、立ち向かってきたんだ……。

私が、何もかもを羨んで妬んで、卑屈になって、いじけて、諦めている間に。

うわあ、こうして、改めて考えてみると言葉にすると、私はなんてどうしようもない人間んだろう。
でも、篠塚は、こんな私を必要としてくれてる……。
この後、篠塚は黙ったまま、私を自宅マンションのエントラスまで送ってくれた。
繋いでいた手を離した時、今までの熱の感触がなくなり、私は軽く自分の空いた手で軽く拳を作る。

「どうして、私なんだ」
「?」
「どうして、篠塚は私に固執するんだ?」
「好きだから、愛してるから、惚れてるから―――――か?」
「嘘をつくな」
「心外だ」
「その言葉をそんなにサラリと云えるキャラじゃないだろ、キミは」
「何を云えば満足する? 納得する?」
「……」
「葛城」
「……」
「お前は、あの時、俺の手を引いた」

いつだよ、いつの話しだよ。
いつ、私が、キミの手を引いた?

「オレにバスケを引き合わせたのは、お前だ」

それか!?
7年も前のことを、なんで覚えてる。
どんな記憶力だよ。
だから学年首席か?

「お前に、確かめてもらいたいんだ、俺が望むものは、お前が望むものと一緒なのか」

私が望んだもの……。
私は……足を踏み出して、リングに飛ぶだけだ。
ただそれだけだ。
それが、私の望んだ、世界の総てだ。

篠塚、篠塚、キミは――――――……それだけじゃないのか?
リングに向って飛んだその先に、何を見たんだ……?

「だから、葛城、俺の傍にいてくれ」
「篠塚……」
「もし、それで納得しないなら、さっき云った科白で、納得しろ」
「さっき云った科白?」
「好きだから、愛してるから、惚れてるから」
「……なんだよ、ごちゃまぜじゃないか」

おかしいヤツ。
ついうっかり信じるところだ。

「お前は鼻先で笑うが、本音はそんなところなんだ」
「笑わないよ」
「今笑ってる」
「……そうか?」
「そういう表情も、嫌いじゃない」
「なんだよ、それ」
「泣かれるよりは、背をむけられるよりは、遥かにいいってことだろ」
「早く、帰れ、遅くなると電車込むよ」
「なんだ、勇気を振り絞って告白した男に対して、最後にかける言葉がそれか」

そんなこと云われても、全然そうは見えないんだよ、キミは。

「マネージャーの件は、前向きに考えておく」

これでいいだろ?
この情けない身体でもやれることがあるなら。
いじけて卑屈になって逃げ回らずに、前に進んでいくよ。



キミの勇気に敬意を表して、私も僅かな勇気を振り絞ることにしよう。