Fly by the invisible wing7




「やる気があるのか、葛城!! そこは制限区域までドリブルで突っ込めといってる!」

―――――おかしい……苦しい……身体が重い……。


体調が悪ければ休めばいいのに、なんで練習に参加したんだといわれるだけだ。
苦しいのは気のせいだ。身体が重いのも気のせいだ。

「もう一回お願いします!!」

雪緒が答える。まるで少年のような風貌で、男女混合のチームには見えない。
コーチの練習にも熱が入る。

「調子悪ぃの?」

桜庭が雪緒の顔を覗き込む。

「悪かった、もう一回いくから」

雪緒はそう云って、ボールを弾ませて位置につくが、桜庭と篠塚は、雪緒の顔色の悪さが気にしている様子。コーチに云ったほうがいいんじゃね? と、桜庭は篠塚と目で会話する。
コーチの笛の音と共に、雪緒がドリブルを始める瞬間……。

―――――痛い……苦しい……息ができない……。

耳の奥でボールが床に弾く音が響く。
視界が一瞬にして暗くなる。



雪緒は図書室の机の上で突っ伏していた自分に気がついた。
あれは……夢だったのか……。
ついうたた寝をしてしまっていたのだ。
そう自分で認識すると、夢の中で触れたボールの感触の名残りを、掌にあるか確認する。
机に突っ伏した上体で自分の心臓を掴む。規則正しい音。痛みも何もない。
ゆっくりと上体を起こすと、上着が肩からスルリと落ちた。
自分はきちんと夏の制服を身につけている。
肩から落ちた上着は制服ではなくて、ジャージだった……。
落ちたそれを拾い上げて、自分の正面に誰かが座っているのに気がつく。

「……篠塚……」
背表紙のタイトルを見ると、どうやら推理小説らしい。
「部活は?」
「今日はない」
「……どうして?」
「先週末が、地区大会だった」
大会後は少し休みを入れる。と彼は呟く。
雪緒は自分にかけられていたジャージを畳んで、篠塚の前に差し出す。
「ありがとう」
篠塚は黙ってそれをスポーツバッグにしまった。
それっきり、雪緒は沈黙する。
篠塚自身も口数が多いタイプではないから、自然と沈黙する。

雪緒は視線を図書室の閲覧スペースを見渡すが、陽菜の姿はなかった。
一緒にきていたはずなのに……。
傍に鞄があるから、多分図書室の中にはいるのだろうと、雪緒は思う。



が、雪緒が姿を捜していた陽菜は……実は本棚の影から見ていた。
一緒に図書室に足を運んだ時、雪緒が少し疲れた様子を察してはいた。
雪緒は椅子に座ると、眠いと呟いて机に突っ伏してしまったのだ。
陽菜は本を探しにそばを離れていたら……そこに篠塚が本の返却にきた。
彼の姿を見て、陽菜はあわてて、本棚の影に隠れた。
別に隠れる必要はないけれど、彼の近くに、話しかけてくる女子がいたので、その様子をじろじろと見ていることを知ったら、先日のように八つ辺りされないともかぎらない。
このところ、というか先日の1件で、陽菜は男子バスケ部を遠巻きに応援するミーハーな女子達に、「抜け駆けしている、生意気な1年」とみなされている節がある。難癖つけられのはいやだと思ったし……。
それに……。
陽菜にとって彼は……篠塚は憧れなのだ。
間近で正視できない、まるで、アイドルをこっそりとみるような、そんな気持ち。
篠塚と女子生徒達のやりとりは、当然図書室だから、声は聴き取りづらく陽菜のところにまで会話の内容は届かなかった。
が、わかるのは……、篠塚の目が物凄く褪めていて、その視線の冷たさ、追い払う感じのその態度に女子生徒達はしぶしぶ図書室に出ていく。
返却作業を済ませて、少し眠り込んだ雪緒の傍に立って、雪緒の細い肩にジャージをかけて、彼は彼女の向いの席に座って、文庫本を取り出して読み始めたのだ。

陽菜はその光景を一部始終見て、出るに出られなくなってしまった。

女子生徒を冷たくあしらう篠塚と、雪緒を気遣う篠塚は同じなのに、どうしてこうも、違うのだろう。
篠塚は端からみても、なんでもよくできそう気がする。ああやって話しかける女子にだって、適当にあしらうこともできるとは思う。
だけど、実際はこんなにも対応が違った。
葛城雪緒だけが、彼女だけが、特別。
それ以外は興味も関心もないのだ。
わかっていたこと。
以前から訊いていた。
察してはいたけれど……。
実際、目の当たりにしてみると、僅かな希望、もしかしたら、陽菜に気づいてくれるかもしれない。そんな希望も……木っ端微塵になくなってしまう。

もしも、誰かと相思相愛になるならば、こんな風に一途に想われたい。

否、誰かとではなくて、彼に、こんなに一途に想われるなら、どんなに……どんなに……嬉しいだろう……。
彼からこんな風に想われたら、どんなに甘くて幸せな空気に包まれるだろう。
それは、陽菜のように彼に憧れる女子生徒達が一度は想うことだ。
彼女達は知らないから、彼が振り向いてくれるんじゃないかという希望は、陽菜が抱くそれよりも大きいに違いない。
だから彼女達は無条件で彼に片想いができるのだ。
陽菜は、彼が本当に心から想うたった一人の彼女の近くにいるから、そんな希望はないのだと、思い知るのは早かった。
彼を彼に対する想いは、恋じゃなくて憧れなのだから、きっとこの痛みは早めに消えるだろう。
だから……彼の恋が……叶うといい……。
そう想うように努めて始めている。
でも彼女……彼が想う彼女は……。

「陽菜ちゃん、知らない?」
「いや、見かけないが?」
「捜してくる」

どうして……彼に向き合わないのだろう……。
彼女の態度に、彼は不満そうな表情を見せるわけでもなく、また、文庫本に視線を落とす。
陽菜は慌てて本棚の影から姿を見せた。

「あの、あの、ユキさん! あたし、忘れ物しちゃった、教室に戻るから」
「付き合うよ?」
「い、いいから、いいよ、さ、先に帰ってて」
「なんで? 待つよ?」
「いいの、待たなくて、あ、メールきた」
なんの着信もない携帯をポケットの中で握り締めて、さも、かかってきましたというように、取り繕う。
そして慌しく、鞄のある方の机に戻ると、篠塚が文庫本から目を離して、陽菜を見上げる。

――――あの、先に、ユキさんと帰って……。

陽菜の視線と表情に気がついたのか、篠塚は、柔らかい笑顔を向ける。
さっきの女子達にしたような、冷たくて硬質な表情で対応をされると思ったのに。
それが、陽菜が篠塚に対しての気遣いに感謝するだけのものであったとしても、そんな優しげな表情を見ることができて嬉しくなる。
そして―――――その嬉しさの倍、切なくなる。

陽菜は鞄を掴んで、慌しく図書室を出ていく。
廊下を走って階段を駆け登って、2階の廊下の窓辺まで走った。

―――――あたしは、ユキさんのオマケなのに、……ヘンに期待するよ、あんなに優しく笑わないで。

どうせなら、その他の女子と同じ扱いの方が、想いきれる。諦められる。
陽菜の鼻の奥がツンとする。
窓を開けると1Fの正面玄関から、篠塚と雪緒が姿を見せた。
雪緒が階段を降りようとすると、篠塚が手を伸ばす。
差し伸べられた手をとろうとする雪緒に、陽菜は驚く。
だけど、雪緒は篠塚の手ととろうとする一瞬、躊躇う。
が、篠塚は雪緒の引き戻す手をしっかりと握り締めた。

―――――なんだ……ユキさん……。

雪緒と篠塚の後姿を見て、陽菜はポタっと涙を流す。

―――――ユキさん……篠塚先輩のこと、好きなんじゃん……。

篠塚に躊躇った手をとられた雪緒の横顔が、ほんの一瞬だったけれど、もの凄く照れくさそうだったのを、陽菜は見逃さなかった。

―――――先輩は、気がついているのかな? ユキさんが本当は先輩のこと……。

「沢渡?」

背後から陽菜は声をかけられて、慌てて振り向く。
誰もいない場所で声をかけられたから、やけにその声が響いて聞こえた。
陽菜を呼んだ相手は、吉住だった。
陽菜は慌てて、口に指をあてて、静かにしろという仕草を見せる。
だが、ここでの会話が、正門を通りぬけようとする二人に気づかれるはずもない。
吉住としては、振りかえった陽菜が号泣状態にも関わらず、黙れのジェスチャーをしたことに唖然とする。
陽菜自身はパニックになっているのか両手であわあわと、吉住を窓に寄せないようにする。
が、吉住は陽菜を押しのけて、窓から外を覗きこみ……見覚えのある2人の後姿を見つけた。
そして、改めて陽菜に視線を戻す。

「ホレ」

ハンカチを差し出されて、陽菜は首を傾げる。
吉住はやれやれと髪をばりばりと掻いて、片手で陽菜の顔にハンカチを押しつける。
陽菜はそのハンカチを受け取ると、自分が号泣しているのにようやく気がついた。
「あたし、最近なんか涙腺緩いのかも……」
「……」
「なんでもないのに、泣くの」
「……」
「ケガしたとか頭痛とか、そんな身体に痛みとかはないのに……先輩とユキさんのことを想うと……てか……今の光景は……なんか……ちょっと……ヤバイ」
「仕方ないだろ、そりゃ失恋してんだから、お前」
吉住はズバリと云いきった。
陽菜はビックリして涙が止まる。
「ちょっと、あんた、もう少し云い方ってもんがあるんじゃないの?」
「諦めがついていいだろ?」
「何よ、こんなの失恋なんかじゃない。告ってもいないのに……恋じゃないよ……」
そういうと、陽菜は声を挙げて号泣する。
「……オレが泣かしたみたいじゃん」
「吉住が余計なことを云ったからだ――――吉住のせいだ――――」
「そうくるかよ? オレのせいか?」
「うわああん」
「あー、もーうるせーな、そういうときは甘いもんでもやけぐいしとけ」
「吉住、奢れ――――」
「オレかよ!? てか、おま、嘘泣きじゃねーだろーな?」
吉住は仕方ねーなと呟いて、陽菜に手を差し伸べる。
陽菜は指先で涙を拭う。
そして吉住の手をとろうとして陽菜は躊躇う……。
篠塚に手を差し伸べられた雪緒の気持ちを知りたくなった。
吉住が躊躇った陽菜手を握り締めて、階段を降りていく。
吉住の手はやけに熱かったのは、外気温のせいかなと……陽菜は思った。