Fly by the invisible wing8




「他の奴等には平気でスキンシップをとるくせに、俺には手も握らせないんだな」

差し伸べられた手をとろうとして、躊躇った瞬間。
篠塚にそう云われて、雪緒は息を呑む。
篠塚の、薄いレンズ越しの切れ長の瞳が澄んだように綺麗で、雪緒は言葉だけじゃなく身体も硬直した。
その隙を逃さず、篠塚は雪緒の手を取る。
細くなった指を包むように握り締めて、彼女が変わってしまったことを、改めて実感する。
チームを組んでいた頃の彼女は、こんなに指が細かっただろうか?
連続でブザービーターを決めた、あの奇跡のようなプレイを見せた彼女は、こんなに小さかっただろうかと思う。
が、それは篠塚自身が、成長したからそう感じるのだとすぐに思い直した。
そして同時に雪緒も……、彼が変わっていることを、彼に触れることで改めて実感する。
一緒にコートの中にいた少年は、雪緒の知らない間に、体格だけは、青年になっていた。
だから、躊躇ったのだ――――彼に触れることを……。
これが桜庭や藤咲なら、そんなに躊躇わなかっただろう……。
彼等も成長しているけれど……篠塚のように、大人びてはいないから……。

「葛城」

「うん?」
「筧から……訊いたんだが……練習メニューのプログラムとかスコア整理を手伝ってくれているらしいな」
「筧が勝手にメールで送りつけくるんだ」
「ありがとう」
「……」
「できれば、練習も見てくれると助かる」
「あらあ、ギャラリーはたくさんいるみたいだから、いいかなって」
「そういう意味で、云ってるわけじゃないのはわかっているだろ?」

彼は少し拗ねたような表情をする。
彼の表情は、冷たくて硬いなんて周囲の評価を出す人間に、この表情を見せてやりたいと雪緒は思う。

そして彼が何を云いたいのかも、雪緒は理解してる。
バスケ部の筧は、ポジション・センターで、部の運営というよりメンバーの体調管理から練習プログラム、対戦相手のデータ整理等のマネージメントを請け負っている。
筧からメールを貰って、相談にのっていたのは、距離を置きながらも、やはりどこかバスケに未練があるからだ。

「余計な……ことをした」

雪緒がそう呟く。

「助かったと云ってる」
「そうだけど……」

昨年、バスケ部を改革を―――――、あれほどのことをしておいて、総てを一掃しておいて、彼が、彼等の誰かが、雪緒に連絡を取っている事実を知れば、あまりいい気はしないだろう。
雪緒は陽菜のことを思い浮かべる。
本当に彼女は……バスケ部にかかわりたがっている……。
雪緒の実力のあってもそれは過去のものだし、特定の女子にマネ的な意見と相談を持ち掛けるのは、過去、バスケ部のマネージャーをしていた女子に対しても、陽菜のようにマネージャーをやりたいと思う女子に対しても、公正さに欠けると思う。
公正さという点において、篠塚が、雪緒に感謝の言葉をかける時点で、やはりズレている。
何よりも彼らしくない……。

「葛城」
「何?」
「マネージャーやらないか?」
「らしくないね」
「まったくだ」

間髪入れずに答えが返ってきて、雪緒は篠塚を見上げる。
まるで雪緒の答えを予め知っていたかのように、その答えた言葉の素早さに驚く。

「らしくないと、お前に云われるのは、なんとなくわかっていた、本当に、俺らしくないな」
「……篠塚……」
「だが、地区大会にも勝って、夏のインハイの切符を手に入れたんだ。勝つために、筧や大野をマネージャー業から解放したい。バスケに集中させたいのも本音だ」
「じゃあいっそ、テストでも設ければいいんじゃないの?」
「テスト?」
「最低のルールやスコアのツケ方とか、希望者つのってテストしてみるの、陽菜ちゃん当たりはやる気満々だよ―――――……それに……」
「それに?」
「篠塚が強引に首きりを言い渡した女子マネの先輩達にも、チャンスがあってもいいんじゃない?」
「チャンス?」
「篠塚達がやってきた強引なバスケ部改革に、とばっちり受けたのは彼女達だろうし」

篠塚は冷笑する。

「本当に実力があれば、首きりなんかしなかった」
「中にはプライドを持ってやっていた人もいるんじゃないの?」
「……スコアの付け方もルールも解らないのに?」
「だーかーらー、女子ってさー右向け右のところがあるのよ、訊いたところによると、仲良しグループだったんでしょ? 元女子マネの先輩たちも時間が経過して状況かわってバスケに対して真剣に取り組みたいけれど、篠塚達との一件があるからもう一度頭下げるのもできない人もいるかもしれないじゃん」
「そんな瑣末なことに気を配るよりも、部員の方をなんとかしたいんだ」
「その部員の為のマネなら、そういうところから気を配って、なおさらちゃんとテストしろって云うのよ」

雪緒に素早く切り返されて、篠塚は苦笑する。
ほんの一瞬、時間が巻き戻ったような気がしてくる。
一緒にチームを組んでいた頃、作戦を立てるたびに2人の意見が飛び交って、時には互いにコノヤロウと思いながら、意見をまとめてゲームをして、勝っていくのが……篠塚は楽しかったし、雪緒にとっても幸せな思い出……。
病に倒れて、あの頃の太陽みたいな生き生きとした彼女の面影はもうないけれど……、それでも、今、こうして隣りにいて、篠塚の大きな手の中に包まれている細い指の持ち主は……たった一人同じ彼女なのだ。
その彼女は……もう2度とコートに立つことはできない……。
だけど―――――――……。

「傍にいて欲しい」

雪緒は足を止める。
夏の近い梅雨の晴れ間の夕暮れ。
空を流れる雲は、だんだんと高く、茜色に染めていた。
オレンジの光が、篠塚の整った顔に当たる。
どの角度から見ても文句無しのいい男だなと、雪緒は思う。
成長期に入る前からわかっていたけれど、改めて思う。
そして、やはり、そんな彼から、「傍にいて欲しい」と云われれば、言葉が出て来ることはなかった。


「ただ……傍にいて欲しいんだ……お前に……」

それが篠塚にとって正直な本音。
バスケ部のことを考えて……なんて、確かにそれもあるけれど、それが建前になってしまうぐらい……何よりも彼女にいて欲しいのだ。
もうずっと……ずっと……彼女だけを見てきた。
中等部から高等部へ、1年1年と、年月が経過するにつれて、恋を告白されることはあった。
中には、確かに雪緒よりも綺麗な子もいたし、もっと成熟した女性からもアプローチがなかったわけじゃない。
そんな彼女達から告白を受けて……告白を受ける度に、篠塚が思い出すのは……。
いつも雪緒だけだった。

「コートに立てなくても? プレイヤーじゃなくても?」
「コートに立てなくても、二度とプレイできなくても、それで葛城の総てが否定されるわけないだろ? それに……見てみろよ」

握り締めた手を彼女の目の前に翳す。

「もし、葛城がプレイできても……こんなに体格違えば、もう公式でしか、互いがプレイできる場所はない」

雪緒は唇を噛み締める。
わかっている。
そんなことは、わかっている。昔みたいに3on3で一緒のコートに立てないのは。
もしそういう大会があってエントリーできても、どこか物足りなさを感じていくだろう。
彼が舞台とする場所にしては狭すぎて小さすぎる。

―――――篠塚先輩がゴールに向っていくところが……好き……。

陽菜が、雪緒にいつだったかそう呟いたことがある。
そういって、陽菜が真っ赤になって雪緒の背を掌でポンポン叩いてはにかんだのを覚えている。
その様子を可愛いなと思いながら、陽菜でなくても、他の誰でも……というか篠塚にアプローチする女子の大半は、その姿に見惚れるのだ。

「ベンチに……いてくれるだけでいい……」
「篠塚……」
「……葛城が出したパスを受け取るときのように、俺の背後に葛城がいれば……、どんなにバランスを崩しても、シュートが入ると確信できる……」
「ちょっと待て、待て、篠塚」

さっき云われた「傍にいて欲しい」という一言より、好きだとか愛してるとか云われるよりも、今の言葉の方が、何倍も照れくさく感じる。
あのコート上にいる篠塚が、不安の翳りも見せない彼が……そんなプレッシャーを抱いていたなんて、誰が思うだろう。
雪緒こそ、篠塚のプレイに憧れたのだ。
コートの中にいる彼が、足を踏み出して、ゴールへ跳びあがる。
篠塚の腕が伸びて、手にしていたボールが指先から離れて、リングへと投げ込まれる。
その瞬間は、まるで鳥の様で、その背に見えない翼があるんじゃないかと、思わずにはいられない。
小学生の頃、一番最初に篠塚のシュートを見た雪緒も、例外に漏れず、見惚れてしまったものだ。
陽菜がはにかんで大好きというプレイ。
多くの女子が、篠塚の試合を見て、黄色い声をあげるプレイは――――――……。
雪緒だって惹かれた。
そして、そんな篠塚と一緒にプレイできた自分が誇らしかった。
自分も彼のように、飛べる気がした。

実際、夢のような奇跡のプレイができた。

そんな……。
生活する上での大部分の時間をバスケに費やし、持てる情熱を総て傾けてすごしてきたのに、今はそれがかなわない。
二度と自分の手に入らない。
もう自分は跳べないのに、篠塚は跳ぶのだ。

だから、今、間近で彼を見るのが嫌だった。
コートの彼を見つめるたびに――――それはまるで憎悪のような嫉妬を抱いた。

「俺がお前の代わりに飛んでやる」

雪緒は目を見開いて、篠塚を見上げる。
その目の光に嬉しさはなかった。
オレンジ色の夕日が、彼女の瞳に反射して、怒りの色を濃くしているのがわかる。

「こういう云い方をするとそういう表情するとだろうなとは、思っていた……お前は、全部自分で手に入れなきゃ気がすまない奴だから」
「……」
「同情されたり、憐れんだりされるの、お前は大嫌いだからな」

「……」

「嫌われても―――――いいんだ……、距離を置かれて無視されるよりは」

篠塚はそういうと、雪緒の手をギュっと包み込む。
それ以降は――――何も云わず、いつものように黙って、雪緒を自宅まで送り届けた。