Fly by the invisible wing5




ボールのドリブルの音と、コートの上をバッシュのゴムが擦れてキュキュっと鳴る。
見守るギャラリーは大勢、だけど、シンと静まり返っている。
目の前のスクリーンを越えて、その身体を宙に浮かせる。
滞空時間の長さが、スクリーンを外す。
手から指先から、ボールが離れ、リングに向って軌道を描きはじめる。

―――――入れ!

そこにゲームセットのホイッスルが鳴る。
選手の誰もが、お終いだと思った。ゲームオーバーだと。
特にディフェンスをしている相手チームは。
ギリギリの点差で勝った勝利を確信して、それを隠さなかった。
しかし、たった今、試合終了間際にシュートを放った本人は、諦めていない。
その気持ちがボールに移ったように、ボールはバスケットリングを潜る。
サンッとネットとボールが擦れる音。
さっき鳴った試合終了のホイッスルよりも、その僅かな音に誰もが注目した。

BUZZER BEATER―――――――

ホイッスルが鳴る前に放たれたシュートは得点として有効なのだ。
それが、決まった瞬間……。
コートの上にある飛びぬけた青空。
逆転勝利を知らせるホイッスルが鳴り、彼女は両手を上げて、勝利を向える……。


小さなピピピという目覚ましのアラームで彼女はその夢から醒めた。
3年前の記憶を夢に見て、ぐったりする。
夢を見てつかれるとはどういうことだと、雪緒は思う。
疲れはするけれど、夢の名残は、彼女にささやかな幸福感を与えた。



「ユキさん、決勝だよ、観に行かない?」
「補習があるの」

確かに雪緒は通常の学校生活でも休みがちで、時折、補習を受けている。
補習があるという言葉に嘘はないし、別にマネージャーをやっているわけでもないクラブの試合の応援と補習を比べれば、補習を優先するのが正しい。
正しいけれど……。

雪緒が、彼との距離を取りたがる理由。
それは、彼等が人気者で、彼等のシンパから煩わしい忠告を耳にしたくないと、雪緒自身が思っている……というのもありだが、それだけではないような気もする。
詮索は趣味じゃないけれど、あの篠塚から頼むと云われた手前、雪緒のことは多少なりとも知っておきたい。
もちろん、頼まれなくても友人になりたいから、傍にいるのだし、彼女に頼られたい気持ちもある陽菜だった。

「じゃあ、あたし、行くね。そいでまた、バスケ部の人達に邪魔者扱いされて、女子からはやっかみ受けてくるから」
「……陽菜ちゃん」
「一緒に行こうよう」
「だから、補習はさぼれないって」
「……ちぇ……、つまんないの」
机の上に座って、小さな子のように足をぶらつかせる陽菜を見て、雪緒は溜息をつく。
「陽菜ちゃんは、クラブに入らないの?」
「うーん……ホントはね、やっぱ身体を動かす体育会系に入ってみようかとも思ったんだけど、体育会系ほど、中等部からの上下関係がガッチリしてて、この学校って中等部からの持ち上がり組みが多いから、どのクラブも入りづらいってゆーか……」
「……そう」
「気のせいかもしれないけれどね、実際男子バスケ部だってそうじゃない?」
「陽菜ちゃんなら、どのクラブに入っても大丈夫だと思うよ」
「ユキさんはー? なんかクラブ入るの?」
「入らない。病院通いがあるからね」
「ユキさんが、バスケ部のマネージャーやればいいのに」
「……」
「先輩達も大喜びでしょ」
「どうかな……篠塚自身が、昨年女子マネは要らないと決めたしね」



昨年、篠塚達の新勢力によって追い出された正規のクラブ部員と女子マネ達。
前の女子マネは、タオルやドリンクを配るだけ。
多分、運動部のマネージャーをやったことがなかったのだろう、マネージャーのイメージはそういうものだと思っていたに違いない。
おまけに、レギュラーとほとんどカップルみたいになっていて、マネージャーらしいことをしてなかった。
そういう女子にうんざりしていた篠塚が、男子バスケ部には女子マネはいらないと、公言したのだ。
本来マネージャーなら、試合のスコアをつけ、もしくは人がいなければ試合のオフィシャル、コートキーパーもして、部費の管理、練習試合の調整、出場する大会の手続き、練習メニューの管理、そいうったスケジュールの管理ができてこそ、マネージャーだと篠塚はいう。
もちろん篠塚だけではなく、他のメンバーもそれに異論はない。
だが、女子でそんなことをできる人間は女子でバスケをやっていた人間ぐらいか、他のスポーツ系クラブに所属していた人間でなければ、即戦力としては使えないのだ。
篠塚は他人に対してではなく、自分にも厳しい。
実務能力がすぐれているとはいえ、雪緒をマネージャーに迎えることは、自分の公言を翻すことになる。
雪緒が戻ってきた時点で、他のメンバーは雪緒にマネージャーを頼みたい気持ちはあるんだと……陽菜は先日、吉住からそう訊いた。
この話しを訊いた陽奈は、

「そんなもの、関係ないじゃん、政治家だって、マニフェストを翻すご時世に、何云ってんのよ、頑固頭!」

と、そう叫び、傍にいた吉住が面食らっていた。

「アンタ……篠塚センパイ好きなんじゃないの?」
「だからナニ? 頑固頭は頑固頭、好きだから全部許すなんて女じゃないわよ、あたし。ユキさんの実務能力が必要ならそれをちゃんといえばいいのよ、周囲にそれを認めさせればいいじゃない!」
「できないだろ?」
「どうしてよ!」
「あの人、体力ガタ落ちしてるから」
「そんなもん、あたしが貸してやるわ。ユキさんが頭脳、あたしが体力で分ければノープロブレム」
「アンタ、本当にガッツあるね……」
「そう?」



「じゃ、今日はまっすぐ帰るよ」
「NO、まっすぐじゃなくて、寄り道しようよう、ダッツの新作食べたいの」
陽菜が叫ぶと雪緒はクスクスと笑いながら、教室を出る。
雪緒は学校内で行われるクラブ活動の見学すらしない。
バスケ部のファンが煩いのは知っているから、それで遠慮しているのだろうと、陽菜は思っていた。
この日までは。
廊下に出て、中庭の専用コートに視線を落とすと、彼等が放課後の練習をしていた。
陽菜は立ち止まって、彼等を見る。
ここからならば、煩いファンもいちいち口を挟むことはしない。
しばしゲーム形式の練習に見惚れていた。

そして陽菜は顔を上げ、雪緒を見た瞬間、ゾクっとした。

彼女を怖いと感じた。
雪緒は大人しく陽菜にならって、窓から中庭のコートを見ていた。
ただ見ていただけならば、こんなに彼女を怖いとは思わないだろう。
その視線は暗かった。
そして暗い視線にも関わらず、どこか熱い……。
嫉妬を含んだ視線。
まるで……恋敵がそこにいるような、そんな目。

彼等と距離を置くことの意味を、陽菜はこの時、察した。

普段の、儚げな憂いを帯びたような表情の理由。

―――……ユキさんは……本当にバスケが好きなんだ……。

―――本当なら、バスケをしたい。でもできない。

―――思いっきりバスケしている彼等が羨ましく妬ましいんだ。

大好きでずっと続けれられると思っていた。
陽菜だって身体を動かすことは大好きだ。
ある日突然、スポーツはしちゃ駄目ですよ、散歩ぐらいならいいですよ。
なんて宣告されて、はいそうですかと、すんなり受け入れられるだろうか?

―――ユキさんはそれを受け入れなければならなかった……。

「あ、ごめん陽菜ちゃん、もういいの?」

―――心臓の痛みと戦いながら、好きなものを諦めなければいけなかった。

「……バスケ、好きなんだよね」

陽菜の言葉に、雪緒はいつもの儚げな表情に戻る。
これは彼女が造ってるのだ。
陽菜に、みんなに、周囲に見せているのだ。
穏やかな、心に渦巻いているストレスを表に出さないでいるための顔なのだ。

「本当は、やりたいんだよね? 本当は見るだけじゃ……」

陽菜がそこまでいうと雪緒は頷く。

「1クオーターだけでもいい、試合をして、コートで死ねたら本望だね」
「……」
「指くわえて見てるだけなんて、冗談じゃない。いくら小さい頃から一緒に大会にでたこともあるチームメイトだからって、実際にただ見ているだけなんて、絶対いや」
「だから見ないようにしてた?」
雪緒はコクンと頷く。
「同情されるのは、なんか悔しい……改めて私はもう何もできないんだって、思い知らされる」
「でも、雪緒さんの場合は仕方ないじゃない」
「……」
「距離置いて、そんな顔しないで」
「……」
「ユキさん、いつも笑ってるけれど、そんな綺麗に造った笑顔なんて、みんなきっと悲しいよ」

―――彼等は、きっと昔のユキさんを知っている。

バスケが好きで、本当に心からの笑顔を知ってる。

―――篠塚先輩は……きっとそれを見たいと思ってる。ずっと思ってるんだ……。

雪緒の驚いた顔が、陽菜の視界に入る。
目の前にいる雪緒は、華奢で、すぐに散っていく桜の花びらのように淡く儚げだけど……。
中身はそうじゃないのだ。
多分、陽菜が思っているよりも、プライドの高い、意志の強い少女なんだと思った。
だから……彼等が無条件で彼女を慕うのだ……。

そんな、彼女がコートに立つ姿を、陽菜は見てみたいと思った……。