A miraculous day7




奏司は、タクシーから急いで清算をすませて飛び出した。
一階の総合受付や喫茶売店はもうクローズされている。
暗い廊下を抜けて、エレベーターのボタンを押すとエレベーター内のライトが眩しい。
ボタンを押して、はやる心を抑えようとしても、無理だった。
――――静。
今どこ?
産婦人科のフロアに足を運んで分娩室と陣痛室の使用中のライトはついてるけれど、そこにいきなり入るわけにはいかないし。
とりあえずメールに連絡が入っていたのでその中に記されていた部屋番号の病室へと足を向けた、その途中に、新生児室のガラス前に見慣れた人物が立っていた。
「叔父さん!」
「おう、奏司」
叔父の隆司が立っている。
「可愛いぞぉ、お前の小さい頃そっくりだ」
奏司は慌てて叔父の傍に走りこんで、ガラス窓に手をつく。
ベッドのネームプレートには神野ベビーと書かれており、そのベッドには小さな赤ん坊が目をつむって眠っていた。

「一時間前に、産まれたんだってさ」
「……静はっ?」
「病室だよ。母子ともに健康だって、よかったな奏司。おめでとう」
そう云われて、体中の力が抜けると同時に、もう一度、視線をガラス向こうにいる小さな存在に目を向ける。
「……早いっ!……オレ、もっとお産って時間がかかるもんだって思ってた」
「俺もだよ」
でも……。
病院に行く途中に車の中で産気づいて、そこで出産なんてドキュメント番組を見たことあるし、こういうこともあるのだろう。と奏司は思った。
ガラス越しにいる小さな小さな赤ん坊が、時折、ぴくっと握り拳を震わせている。
「ちっちぇ……何この小さいの。なんだよ、もー、お前ーパパだぞ。おめめ開けて」
「無茶言うな」
「抱っこしてえ」
「これからいくらでもしてやれ」
「うん、あ、静、静のところにいかないと」
「そうだ、労ってやれ」
奏司はガラス越しにまたねと呟いて、静の病室に入る。
カーテンをそろっと引いて、ベッドにいるのは、朝見た時と変わらない彼女の顔だった。
「静」
「奏司……」
ベッドに横になって、叔母と話し合っていた静が、奏司の姿を見て微笑む。
「赤ちゃん見た?」
「見た見た、すっげえちっちぇえの、可愛いの……ありがとう静、御苦労さま」
「奏司もお疲れ。ライブ初日」
「おしかったわね、奏司。一時間ぐらい前に産まれたのよー。案ずるより産むが易しって本当ね」
「だってね、叔父さんが新生児室前にいてさ教えてくれた」
「じゃ、奏司が来たことだし、あたし達は帰るから。また明日くるからね、静さん」
「はい」
美和子が、バイバイと手を振って、病室を出ていく。
奏司は傍にあった椅子に座って、静をじっと見つめた。
「うん?」
「ありがとう」
「……うん」
「立ち会えなくてごめん」
「私も……ごめん、待てなくて」
「それはいいんだって、静の身体と赤ちゃんの身体が一番だから」
奏司は静の前髪を指で払う。
「痛かった?」
「かなり」
「……ごめんな。代われるものなら代わってやりたかったんだけど。こればっかりはそうもいかないんだもんね」
静はぷっ噴き出す。
「私も、もう、最後は力でなくなってお医者さんに引っ張ってもらたのよね……もう少し力をつければよかったわ。ずっと仕事してたし体力はあるつもりだったんだけどダメねジムに通いたくなっちゃった」
「……そうなんだ……ジムはいいね、俺の使ってるとこ託児ルームあるよ。みんなでいこうか」
「ね、そんな吸引したの、わからなかったでしょ? あの子、頭の形もそんなに変わってなかったでしょ?」
「うん。可愛かったよ。大きな声では言えないけどさ、新生児室にいるどの赤ちゃんよりも、可愛かった」
「いきなり親ばか全開ね」
「親ばかでもいいもん」
「明日から母子同室になるの。ここは個室だから」
「抱っこしたい」
「明日ね」
「あー待ち遠しいなー」
静の寝ているベッドに頬杖ついて、そう呟く。
「……」
「ね」
「うん?」
「明日さーもしかしたら、静に怒られるかもだから、今、云うね」
「うん?」
「バラしてきちゃった」
「?」
「結婚してるよって、ライブで」
静の目がゆっくり見開かれて、慌てたように上半身を起こした。
「なん……」
「いつまでも、黙っていたくなかったんだもん」
静の表情から笑顔が消える。
「TV中継あったけど、そこは外したよ。最後のアンコールのMCで、云ったの。だってオレやだよ。静のことも、子供のこともずっと隠して、自分の息子と堂々と歩けないのは」
「……」
奏司が世間に結婚のことを公表したとなれば、相手が自分だということもバレるのは時間の問題。
週刊誌のバッシングは多少は覚悟しなければならない。
マネージャーが担当アーティストと結婚がこの業界ではまったくないとは言えない。好意的な記事やインタビューのVTRは自己申告してるタイプの方が圧倒的に多いだろう。
だけど奏司自身も、例え自ら申告したからといったって、いい意味でかきたてられるとは限らないのだ。
目の前にいるこの彼はわかっているのだろうか。
静は、眼鏡をかけて、奏司をじっと見つめる。
「……自分のしたことはわかってる?」
「うん」
奏司は静の左手をつかむ。
薬指に光るリングを指でもてあそぶ。
「静は、オレよりも世論が気になる?」
静は、彼の黒い瞳を見つめる。
「オレは平気だよ。静がいてくれれば、何を云われたって」
「……」
「静は、他の誰かにちょっと云われたぐらいで、オレを離すの?」
ちょっと云われるのレベルの話じゃないのになと静は思う。
「……」
奏司は静の指を絡める。
「オレは静を離さないよ、絶対」
「……絶対って言葉はないと思うけど」
「いいや。この件に関しては絶対だ」
きっぱりと言い切る奏司は静を抱きすくめた。
彼と一緒に歩くことは、もうとっくに決めたことなのだから。
「静が離れても、追いかけて捕まえるんだからね」
誰に何を云われても、ずっと変わらない気持ちがある。
彼はそれを体現する人だ。
だから、多くの人が惹かれてやまない。
静自身もだ。
「うん」
「……」
「大好きよ、奏司。愛してる」
「……」
「何?」
「いや、静からそんなストレートに云われるとちょっと嬉しくてムラッと」
静はピンと奏司のおでこをはじく。
「痛い、静さん痛い」
おでこを抑える彼を見て、静は笑う。
その笑顔を見て奏司は安堵する。
「じゃ、ゆっくり休んでね」
奏司は静をゆっくりベッドに寝かせて、ちょんと唇にキスをする。
これぐらいなら怒られないだろうと奏司は内心思った。