A miraculous day3




――――今日、出産しましょう。
静は無表情のまま担当医を見つめる。
「驚かれました?」
「はあ」
予定日は2週間先なのだ。
2週間先は年明けで、仕事も入ってないから奏司は出産に立ち会えると思って、立ち会いを希望した。
それなのに今日……。
「どうもね、神野さんのおなかの張りはやっぱり陣痛なんですよ。で、さっき内診したらおしるしがきてるんです」
出産の時期は個人差がある。
38週でそうなってもおかしくはない。
幸い胎児も3000グラム近くある。
そんな担当医の言葉を聞きながら、静は自分の腹部に手を添える。
「主人は……今日仕事で……立ち会えないんですが……」
静の検診に付き添った時、立ち合い出産を希望するかと病院側から尋ねられた時、奏司は即座に答えた。

――――もちろん立ち合うよ、オレの子だもん。オレの家族が増えるんだよ。
彼が欲しかったもの。
幼い頃になくして、もちろん心優しく頼れる養父母の存在はあった。
でもだからこそ、強く彼が望む、彼が築きたい彼の家族。
彼の為にと思った存在は、静にとってもなくてはならないもの。
その誕生の瞬間には立ち会えないとなると、奏司はがっかりするかもしれない。
「うん、そこはちょっと希望どおりに行かないので、なんとも云えないんですが……」
「でも、赤ちゃんは出たがってるんですよね」
担当医は頷く。
奏司は立ち会えない。
けれど……今日は、彼の誕生日。
ものすごい奇跡だ。
静の中で育まれた小さな命の奇跡。
「……わかりました。お願いします」
「入院の準備は済まされてますか?」
7か月頃には着替えやタオル洗面道具などを詰めて、もうバッグに準備万端整えていた。
「はい」
「他にご家族は……?」
「主人の母が今待合室で……」
美和子がこの知らせを訊いて飛び上がる様がありありと想像できる。
「じゃ、大丈夫かな。午後にならないとね、ベッドが空かないんです。なので、一度ご自宅に戻って、お昼を食べてからきてください。あとは……んーそうね、念のため、お風呂はシャワーだけにしてきてください。午後一で入院手続きします」
「はい……よろしくお願いします」
「お大事になさってください、午後、お待ちしてます」
「はい」
静は一礼して、診察室を後にした。
待合室にいる美和子が立ち上がって、静の傍による。
「美和子さん」
「どうしたの?」
「生まれるって」
「え?」
「赤ちゃん」
美和子は叫びだしたいのを堪えるように、両手を合わせて、口元で抑える。
「ど、ど、どいうこと? 予定日はまだちょっと先よね?」
「はい、でも、実は、おなかがずっと張ってたんです、それがどうやら陣痛だったみたいで……で、いま内診受けたらおしるしがあるみたいで」
「まあまあ……」
美和子が静の腕をさする。
「まだベッドが空かないから、お昼食べてから午後にもう一度来てくださいって」
美和子は小さく何度も頷く。
「ランチなんて云ってられない〜! えっとえっと、どうすればいい?」
一度も出産の経験がない美和子は動揺する。
「落ち着いて、美和子さん。とりあえず、今の検診の清算をすませて、一度マンションに戻りましょう。入院するまで付き添ってくださいますか?」
「もちろんよ。隆司さんにも連絡しないとー、あと、静さんのご両親にもお知らせしないと」
「……」
静のほんの少し躊躇を美和子は感じていた。
静自身が、隔ててしまった実母との距離は、何かと静らしくない判断や躊躇いを表面に出すのだ。
奏司はもちろん美和子もそれは感じ取っている。
ぎゅっと静の手を握り締めて、まっすぐ静を見上げる。
「……静さん、知らせましょ?」
「それは……入院するちょっと前ぐらいに連絡入れることでいいですか?」
「好きなタイミングで。でも生まれるよって、連絡して……絶対よ」
美和子の言葉に、静は頷いた。
 
行きはバスだったが、帰りは身体のことを考えてタクシーで帰宅した。
そしてマンションに戻り、あり合わせの食材で……卵と、冷蔵庫の残り野菜と冷凍ご飯で、美和子が簡単にチャーハンを作る。
その手際の良さに美和子の主婦の年季を感じる静だったが、そんな美和子に「ほらほら、お昼作ってる間にシャワーしてきたほうがいいわよー」なんて言われて、静はシャワーをすませる。
入院したら、暫くは入浴ができないからだ。
「ごはんどうしよう……」
シャワーを終えて、美和子の作ったチャーハンを口に運ぶと、静が云いだした。
「え?」
「奏司のごはん」
「大丈夫よー! まったく一人暮らししたことないってわけでもないし」
確かに奏司は、このマンションを購入してから、しばらくは一人で暮らしていたこともある。
「今はデリも冷凍食品も充実してるから、大丈夫」
美和子に云われて、静は頷く。
「あたしも時々見に来るし。あ、静さんが迷惑じゃなければ」
静は首を横に振る。
「迷惑なんかじゃないです。助かります。ありがとうございます。あ、じゃあここの鍵、あとで渡しますね」
「うん。けど、やっぱり静さんは落ち着いてるっていうか度胸あるわねー」
「え?」
「まあ、これから出産するっていうのにそんなに動揺してる様子もないし、姑に家の鍵を渡すのも躊躇わないし」
「姑……」
「一応、姑よ、わたし」
静はクスリと笑う。
「ですね、でも、美和子さんのことは好きですよ」
「……」
「え?」
「今、すっごく、キュンてきた! 奏司の気持ちがわかったかも!」
「え?」
「意外性な感じに弱いのよねーなんだっけ、ほらほら、あれ、最近のいうところのなんだっけそうそう、ツンデレ?」
「……」
「なんで引くの〜?」
「いえ、引いてません。私も今、美和子さんがやっぱり奏司のお母さんだなって実感しました」
「えーそう? 嬉しいなあ、お母さんかー」
「美和子さんは、お母さんですよ」
「じゃ、病院に行く前に、本当のお母さんに連絡しないとね」
美和子がにっこりと笑顔で静に云う。
「……はい」
食事を終えて、静は携帯から電話をする。
留守電に切り替わって欲しいとほんの少し思う。
実母は静のことを気にかけている……だろうと周囲は思ってるが、静はどうもそう思えない……というか思わないようにしてきた。きっと今回のことで少しは静が自分の母親と養父に向き合えればいいと美和子は思っているのかもしれない。
コールは三回目で止まり、相手先の受話器が取られてた音。
「もしもし……」
『静?』
あまり連絡を入れない娘の声を、母親はしっかりとあてる。
「はい。あの。これから病院で出産します」
『え? そうなの? 奏司君は? 仕事よね』
母親が彼の仕事のことを知っているのは意外だった。
確かに有名人だし彼のような職業の年末スケジュールは多忙を極めているとは察してるだろうが……。
「奏司の、叔母様がいま来てくださってて」
『わかったわ、その、私も、行っていい?』
彼女にしてみれば初孫の誕生なのだ。
「はい。病院は……」
病院と午後に入院すると伝えて、携帯の通話ボタンを切る。
美和子はそんな様子をからかうわけでもなく、窘めるわけでもなく、淡々と食器を洗い片づけて、荷物を玄関まで運ぶ。
美和子は携帯からタクシー会社へ連絡して、タクシーを呼ぶ。そしてメールで隆司に連絡を入れたようだ。
静も最初メールにしようかと躊躇ったものの、やはり奏司に直接電話を入れることにしたのだった。