Extra ラスト・ゲーム playball
ユニホームに袖を通す。
鏡の前で、彼女は長い髪を帽子の中に無理矢理積め込んだ。
野球帽をとっても、ちょっとやそっとでは崩れない様に、ぎっちりまとまってある。
「じゃ、お母さん行ってくるね」
「後で行くわ」
「うん」
帽子の鍔をキュと下げて、荷物を持つ。今日は歩いて1分の梅の木グラウンドだ。
梅の木ファイターズのホームグラウンド。区営だから、梅の木ファイターズのものじゃないけれど、どのグラウンドよりも応援者の数が違う。
梅の木ファイターズ。
地域の少年たちというかこの公団の中で、知らない者はいない。
高学年になると一度は入団しようかと子供だけでなく、保護者も考える。
彼女は小学校に入学してから、ずっとこの野球チームに在籍していた。
今日はバッドとグローブだけでいい。
あとは母親に頼んだ。
重たいドアを開けると、エレベーターホール正面の部屋のドアが勢いよく音をたてて開かれた。
ドアから出てきたのは、自分と同じユニホームを着た、同じぐらいの身長の少年だった。
「先行ってっから! 後の荷物はタオルだけでいいから!」
そんなんで、いいわけないだろうと、少女は思う。
でも、自然と笑いがこみ上げてくる。
彼らしい発言。
いつも通りだ。
これが最後なのに……。
―――――――あたしには、最後でも、ヒデは違うんだな。
少年にはまだ長い長い挑戦の時間が用意されている。
「トーキチ!!」
少年はエレベーターのボタンを、TVゲームのコントローラのごとく忙しなく連打して、トーキチこと藤吉透子に手を振った。
「ヒデ! おはよう!」
ヒデこと荻島秀晴は、ガーと音を立てて開いたドアの開ボタンを押して、トーキチ同様、グラブとバット。あとメットも抱えてながらも、トーキチに、こいこいと手招きしてる。
「早くこいよ! エレベーターきたぞ!!」
そう叫ぶ彼は、ユニホームの上に、プロテクターやレガースを身につけて、頭に帽子の上にマスクを載せている。
その声にしたがって、トーキチは開いたエレベーターの中に滑り込んだ。
「先週は三倉がピッチャーだったからな! 今日はトーキチだろう!」
「最後だから三倉、出たいんじゃないかな」
もう1人のピッチャーの名前を、トーキチは出す。
2人は、エレベーターが降下を知らせて点滅する数字を、ずっと目で追っている。
「三倉と今日の相手は相性悪いからなー。監督が出さねーだろ、出すとしたら、代打」
「……うん……そうか、そうかも」
三倉は、今日の試合の相手と去年の夏の大きな大会でぶち当たって、惨敗した。
だから、先々週、三倉はわざわざ相手チームの試合を調べてきのだ。
相手チームの詳細を、今日、登板のトーキチに知らせる為に。
「ホームビデオまで持ち出して、自分は出ないのにな。トーキチ、お前ここで勝たなきゃ、男じゃねーぞ!」
トーキチはグっと彼のほっぺたをつねる。
「誰が男?」
「ひょへんひゃひゃい」
ごめんなさいと云っているみたいだ。
「それをゆーなら、エースじゃねえぞ、だろ?」
手を放すと、彼はほっぺたをすりすりと片手で撫でた。
「だって、トーキチ、テンション低いんだもんよー」
トーキチは溜息をつく。
「いろいろと、思うところはないのかヒデは!」
「んー……ない!」
そうだ。自分とは違う。
「だって。トーキチ試合になったら、ぜってーマウンド降りねーもん」
トーキチはヒデを見る。
「お前が登板したら最後だろ、三倉は試合状況によってマウンド譲るけど、お前は譲らない。三倉のおばちゃんに野次られても、降りない」
三倉のおばちゃんに野次られるとは、嫌味を大きな声で言われるぐらいなのだが、ヒデはそれを聞くたびにウルセーと呟く。
子供が選手として活躍する、しかもポジションがピッチャーなら、もっと子供を前面に押し出したいだろう。保護者の中にそういった気持ちを表面にだしてくる人物もいる。三倉の母はそういった人物だ。
そういう親だと、子供は自分の気持ちを逆に表面に出しにくい状況になっているのかもしれない。
三倉自身は、控えのポジションだと思っているし。どのポジションにまわっても、多分レギュラーの力には及ばないことも自覚しているようだ。
チーム内の誰もが、実力的にも性格的にもトーキチをチームのエースとして推す。
監督もトーキチを出す時点で、交替は考えない。
この2年、トーキチは梅の木ファイターズのエースを張ってきた。
「ヒデ」
「あんだよ」
「あたしにゲーム組みたてさせるんじゃないよ。ヒデがキャッチャーなんだから」
ヒデはニヤリと笑う。
「わかってるさあ」
どうだろう。とトーキチは思う。
「4番バッター勝負も、絶対に勝ってやる」
相手チームの4番もキャッチャー。
ポジションも打順も、相手チームと被っている。
気持ちはそっちの勝負なのかとトーキチは思う。
「ガンガン打たれそうだな」
「弱気だなー、らしくねえ! 打たれたって、外野に任せておけ、梅の木グラウンドのフェンスは高いから、ひっかかって、跳び越せねーだろ。ホームランはそうそう出ねえよ。それに打たれても、オレが打ち返してやるから! お前は投げてろ! な?」
―――そうだ。
ガンガン打たれそうなのは、相手チームのピッチャーの方もだ。
幼馴染のバッティングセンスは、トーキチもすごいなと思う。
一階のエレベターホールを抜けて、住居ポストを抜けて、駐輪場を横切って、落下防止板の屋根を抜けると、3月の強い風が舞っていた。
正面はタコの滑り台がある公園。
その横に、隣接している梅の木グラウンド。
2人は、グラウンドに向って走り出す。
相手チームもチラホラと梅の木グラウンド横の道路に車を止めたり自転車を止めたりして、入ってきている。
「ヒデ! トーキチ!!」
「岡野!」
同学年のファーストの岡野が2人に手を振る。
「軽く準備運動してから、キャッチボールだってよ」
「OK」
「なんだよ、ヒデ、全部身につけてきたんか?」
「だってそのほーが荷物になんねーもんよ」
岡野がレガースやプロテクターを外すのを手伝う。
トーキチもマスクを外してやる。
「梅の木グラウンドで試合やる時は、いっつもこれだ」
「いいじゃんよ、荒川の河川敷のグラウンドだと、これじゃ、いけねーんだから」
荒川の河川敷のグラウンドでやるときも、こうして防具を身につけて自転車に乗り込もうとして、トーキチにダメ出しされた。
乗りにくいと呟いたヒデに、トーキチは防具、大事にしろ、このアホンダラと怒鳴られて、それは辞めた。
プロテクター等を全部外して、屈伸やアキレス腱伸ばしのストレッチを行う。
「キャッチボールしようぜ」
何人かと交代をしながら、キャッチボールをする。
「なー、ヒデ」
「おう?」
岡野はヒデに話しかける。
「トーキチ、大丈夫か?」
「何が、あ、テンション低いってか」
「うん、元気ないってゆーか」
「……大丈夫、試合になったら、絶対、トーキチはいつもの負けん気の強い、自信満々、倣岸不遜のトーキチになる」
「そうか?」
「ラストゲームだからな」
ヒデの言葉に、岡野ははっとする。
「オレ達が梅の木ファイターズを卒団する記念試合ってだけじゃねーから」
「……」
「あいつが、ユニホーム着て、マウンドに上って投げる、最後の試合なんだ」
「そうだったよな、もう、トーキチ、野球やんねーんだもんな」
この2年、マウンドに立っていた、自分達のエースピッチャーは、小さな女の子。
「花道つくってやろうぜ!」
「おう!!」
チームのみんなは、トーキチのピッチングに高い評価をつけていた。
そのラストゲーム。
「整列!!」
審判がホームベース前に立つ。
お互いのチームがホームベースを挟み整列する。
「梅の木ファイターズ対砂川町アローズの試合を始めます。礼!!」
「よろしくお願いします!!」
青空に、元気イッパイの声が響き渡った。