年明けてから、キッチンはカカオの香りが染み付いている。
昨年めでたく（？）も結婚したあたし、小野崎莉佳、改め鳴海莉佳（元・パティシェ）は、子育ての傍ら、姉が経営するカフェに卸すスイーツを作ったり、旦那の店に卸すスイーツを作ったりしている。
作ることは好きだ。
結婚を機に専業主婦にってタイプでもないし、それに、作ってなきゃ腕が落ちそうで怖い。
「業界でも１、２を争う食品会社の社長の妻になっていて、なんでそんなにアクセク働くかなーあたしたちだったらセレブ気分を満喫しちゃうけどなー」
と、友人たちは口をそろえて言うけれど、会社社長って聞こえはいいよ、確かにあたしの旦那はおぼっちゃまだよ、だからこの不況に会社傾いて破産とかなったら先々どうするのよ!? あの挫折とか失敗とかの二文字を体験したことなさそうなあの男が腑抜けになったらさっ。
いやーそれは絶対ないでしょっていうけどね、絶対なんて言葉こそ、ないんだからっ！
いや、だからね、もしそうなっても、あたしは、娘を育てていかにゃならんのよ、先立つモノは金です。
いつかそうなった時の為にあたしは自分の腕を磨き続ける。
この腕はささやかながらも金になる。
それに……いつ、あたしがお払い箱になってもいいようにねっ。
「……お払い箱ってあんた、離婚すんの？ 新婚もいいとこでしょ？ 結婚記念日よりも先に離婚はないでしょー」
バツイチの姉、莉紗がタバコに火をつけて紫煙を吐きだす。
莉紗姉の言うように、確かにあたしは新婚です。
しかも恋愛も結婚も妊娠も出産も纏めて昨年体験しましたけれどね。
だけど。
「そうなってもおかしかないでしょ、あの男にはいろいろ周りに女がいるんだから」
「ああ、これ？」
莉紗姉は、客が忘れていったスポーツ紙の芸能欄を広げる。
あたしは僅かに口元を引き攣らせる。
モデルの折原美緒子、深夜のデート!?
でかでかと三段ぶち抜きの見出しに写真。
華奢でスタイル抜群の最近マスコミにもてはやされてるモデルと、一緒に写っているのはまごうことなき、うちの旦那ですよっ!!
そりゃー自分が激しく不器量とは言いませんが、モデルとかと比べると霞んじゃうでしょーが。
あの男にはこういう女がお似合いですよやっぱり。ええ。
「でもこれ、スポ東でしょ、!?マークをつけてるから信憑性薄いんじゃないの？」
知るかっ！
朝のニュースの芸能コーナーでもこの記事取りあげられましたよ！
そのＴＶのついた朝食の席で、ヤツはこの件に関して、あたしに何も言わなかった。
あたしは気になったけれど、ここで「ねえ、これってどういうこと!?」なんて朝から金切り声を上げて問い詰めるほど、若くはないし、そんなことをしてヤツに「なんだ、やきもちか」なんて、ニヤニヤ笑われたくもなかったし。そんでもってそのあとに「なんだ、莉佳はやきもちやきだなあ」なんてからかわれるなんて我慢ならんわ。
だいたいこの結婚自体がそもそも棚ボタすぎたんだっつーの。
そうよ、現実は甘くはない。むしろビター。ほろにがテイストですからっ。
「まあねえ、莉佳の旦那はいい男だもんねえ、そんな男と結婚したんだから、これぐらいはね。けど、あんたのそいう態度を旦那に見せたら、あの旦那はデレるね間違いなく」
「はっ!? あたしが!? なんで」
「やきもちでしょ」
「やきもちなんかじゃないわよ。別に、慧悟が誰と付き合ったってあたしには関係ないでしょ」
「あんたの旦那で娘の父親、関係なくはないでしょ、何言っちゃってんの。てか、絶対コレ仕事がらみだってば」
んなこたわかてる。
わかってるけどわかってるけど、こーモニョっとするのよ。
「ママーただいまー！ あ、りかちゃんだあ！ いらっしゃーい」
「おかえり、優莉」
店の前に止まったバスから、姪っ子の優莉は直接帰宅。
「よかったあ、りかちゃんにおねがいがあるのっ」
「何？ 優莉」
「もうかえちゃう？」
「うん、菊田さんが茉莉をみてくれてるから、すぐに戻らないとね」
「そっか……」
しゅんとなる優莉をみて、あたしはついつい優莉の前にかがみ込む。
「おねがいがあったんだけどな……」
園服のままもじもじと身体をゆする。
くっ……この仕草は、この年齢の子がやってこそ、意味がある。
可愛いじゃないの。
「なあに？」
あたしは思いっきりデレた感じで尋ねる。
「ちょこ、つくりたいの、てつだってほしいの」
「……」
「ばれんたいんようのちょこ、いっぱいつくってるから、だめ？」
「いいよ、誰にあげるの？」
「んとーゆうだいくんとーあきひろくんとーあとーほかにもえーとえーと、さんにんぐらい？」
「……」
「……」
姉よ、あんたの娘、リア充だな。
弱冠５歳で５つもチョコ配るんかい。
しかし後に姉に聞いたところで、この数は平均的、もしくは少ないらしい。
だいたい、同じクラスの男子にはお迎えの時に配りまくってるらしいのだ。
どこのチョコメーカーだよ、バレンタインには女の子から男の子に愛を告白する日ってキャッチフレーズ考え付いたのはっ!?
いや、いかん、これはあたしの仕事的にはかきいれどきでさ、本格的に仕事を復帰を考えるならば、ここでまた頑張らなきゃってところですけれどね。
が、仕事を抜きで考えるとグルグルとくるものがあるのよー！
そうよ、あたしの学生時代なんか今の優莉みたいに、クラスの誰くんが好きでバレンタインに告白しちゃおう。きゃー。なんて甘酸っぱい思い出なんかないわっ！ むしろ、女子からチョコを作るからレクチャーしろと、猛烈アピールを送られてきたわ！
そんなあたしも昨年結婚して、まあその、旦那に対してはそう言う気持ちもなきにしもあらずだったのに……。
あのスポーツ紙のすっぱ抜き記事のせいで、そんな甘酸っぱい気持ちはオゾン層の彼方に飛んで行きましたとも！
あたしの無言に優莉はやっぱりダメかなーって雰囲気でしょげている。
いやいや、ここはあたしの気持ちとかの問題は置いておこう。
可愛い姪っ子の為だ。
「いいよ、優莉、作ろうか。叔母ちゃんも手伝ってあげる」
「うわーい！ やったあ！ えっとね、こんどのどようび、りかちゃんのおうちにいっていい!?」
「いいよ、お泊り支度しておいで」
「いいの？」
これは優莉ではなく姉の言葉だ。
「いいよ、あたしも四六時中、菓子作ってるわけじゃないから。莉紗姉もたまにはいいでしょ？ それとも優莉がいないとさびしい？」
「なんかあんたが結婚してからこっち、お世話になりっぱなしって感じだからさ」
姉らしくもなく殊勝な言葉が出てくる。
「いいのよ、そのうちあたしも、このうちにお世話になる日が来るかもしれないんだから！」
「また馬鹿言ってる。鳴海さんに限ってそれはないっしょ」
……わからんよ、人生なんて、ビターチョコテイストですよ。姉。
バツイチの貴女が一番よくわかってらっしゃるでしょ？
こういった波風がたつと、やっぱり結婚なんか……するんじゃなかったな……って思っちゃったりするあたしは、自己中なんだろうか。
自己中なんだろうな。
子供ができて結婚して、一年未満なのに、自分の感情もコントロールできないで、何が母親で、何が奥さんなのよ……。
最低じゃない。
最低だ。
だからせめて、未来ある優莉や娘の茉莉には甘くて幸せな日々が訪れるように幸せな気分にさせてあげたい。
あたしは優莉と約束して、姉の店を後にした。