優莉の抱えるイルカちゃんぬいぐるみを見て、姉は恐縮していたようだった。鳴海氏は、その時にゴールデンウィークの予定を姉から訊き出して、自分のところでバーベキューをするので一緒に参加して下さいと、しっかり誘ってOKを取りつけた。
本当に、無駄なくスピーディーに予定が決定されていく。
マイワールド・マイペースなあたしにはついていけない。
「莉佳、詳しい話は金曜日に。迎えに行く」
「場所を指定してください。鳴海さん、お忙しいだろうから、迎えはいりませんよ」
あたしがそう云うと、鳴海氏から不信そうな視線を送られた。そんな顔しなくたって、姉も鳴海氏の誘ったバーベキューにはノリ気なのに断らないわよ。
「じゃ、携帯出して」
その一言で、この人と携帯での通話やメールのやりとりをしてない事実に今、気がついたよ。
「あんた、携帯のアドレスもまだ教えてなかったの?」
「ガードが固くて、ご両親がしっかりされてたんですね」
「いいえ、気が効かなくて、どんくさいだけなんですよ〜」
姉よ……云うじゃないの……。いや、事実ですけどね。
あたしはしぶしぶ携帯を取り出して、赤外線でアドレスの交換をした。
しかし、この男が女相手にまめにメールやら携帯やらかけてくるようには思えないわ。
しかもそれがあたしが対象ってのは、ないない。
ついうっかり口の軽い友達が、この人の携帯を女に教えて、積極的な美女から執拗なラブコールがかかってくるとしてもよ、この男がデレた感じで女に電話するなんて想像できませんから。
そこへいくと、莉紗姉の元旦那はすごかったなー。うぜえってほど電話メール攻撃だもんよ。別れてからじゃないのよ、結婚する前ね。交際中の時よ。
あたし、そんな電話とかメールとかガンガンかけてくるような男ははっきり云ってやだわと思ったね。そんな男と姉が結婚して上手くいくはずがないんだけどさ。姉はわかっていのかな、自分と絶対合いそうにないってわかってても、相手の情熱に流されてるって。
予想と体験は違うんだよねきっと。
例えばさ、あたしよりも口が悪くて男前な姉が結婚できたり離婚してるのに年下の男にモテルってのは、姉はそこそこな隙もあると思うんだ。隙というか、優しさみたいなもの、男が踏み込めば受け入れてくれそうな……実際その隙というか優しさで、莉紗姉自身が傷ついても本人納得してるし受け入れる。どんなに傷ついても傷つくってわかってるのに飛びこんじゃう、勢いのよさというか強さがある。
あたしはいつも予想するだけ、思うだけで、実際に行動に移して踏み込むことはなかった。傷つくのが怖いから……。
どんだけ繊細なのよと死んだオカンに呆れられたこともあるけど。
だって嫌じゃない。傷つくの。だから自分が大事で片想いでいつだって満足してたのよね……。自分のペースじゃなくて相手のペースに合わせたりするのって、息切れしそう。絶対に多くを求められたりするじゃない、あたしに期待されてもきっと相手は満足してくれないってわかってる。だからあたしは今まで自分のペースで生きてきた。
「おやすみ」とそういって走り去っていく鳴海氏の車を見送る。
あたしは、彼のペースに合わせて生きたら、きっと、疲れて傷ついて泣くだろう。だけど、それを凌ぐ甘く幸せな時間をあの人はくれるのかもしれないって心のどこかで勝手に期待している……。
それがあたしにとって幸か不幸か、あの人にとって負担か否かなんて、やっぱりこんな風につらつら考えてるだけじゃ、わからない……。
「具合でも、悪いのか?」
金曜の夜。
鳴海氏が前日メールで送ってきた店に入ると、鳴海氏はすでにきていた。
エントランスに入り鳴海氏の名前を出すと、ホールを抜けて奥の個室の方へ案内された。
店内の内装もスタッフも、一流どころと思われる雰囲気。
あたしも仕事上、いろいろとホテルやレストランには足を運んだけれど、やっぱり鳴海氏のセレクトだろうと思わせる高級感。
仕事抜きだったら考えないわね、こんな高級レストランに入ろうなんて、よっぽど記念日とかでお祝いをとかなら考えるけど普段の生活からは絶対に思い至らない店よ。
「いいえ」
「顔色がよくない」
「……気のせいよ」
あなたと一緒だと常に気分が最悪だからでしょ。なんて、大人げなく投げやりな感じで憎まれ口を叩くことはしなかった。
どうせあたしが何を云っても動じないんだから。
「テンションも低い」
そんなにあたしは常にハイテンションですか?
さりげなく、むっかりくることも云われてますが、それにいちいちキーキー反論するもの馬鹿らしくなってきた。
「それで。いつ? どこで? 何を持ち寄ればいいのかしら?」
「5月3日に、ウチの別荘でやる。別に何もいらないよ。迎えに行くし」
「いいわよ、その別荘って何処? そこまで電車で行くわ」
「迎えに行く」
……ほんと、この男は譲らないよなー。あたしもだけど。
でも、いいやもう。めんどくさい。
「そう、子供たちの好きな食べ物とか嫌いな食べ物はないの?」
話を切り替える。
「甥っ子は好き嫌いない」
そう躾が行き届いてらっしゃるのね、という言葉に出したら、何に怒ってるとかま突っ込まれそうだから黙っていた。
この男の兄家族とかだと、やっぱセレブで高級店の味に慣れ親しんで下町の粗野な食材とかは見向きもされなさそう。うちの近所のスーパーで売ってるバーベキュー用の肉や魚にダメだしされちゃうかも。なんか甘めのパイやケーキでも焼いて行こう。日持ちのいいクッキー系もあたしの作る菓子にはダメだしはさすがにしないだろ。
けど、そんなことを思うぐらないら、お前このコース料理を平らげろよと、云われそうだ。
でも食欲がわかない。
胃が痛いしむかむかするし。
頭痛もするし熱っぽいんだよね。
「帰ろうか」
「?」
デザートとコーヒーはどうするの?
鳴海氏はコーヒー好きなのに。
「莉佳が具合悪そうだから」
「大丈夫」
そんなに気をつかわなくてもいいのに。
「あたしだって、ここのデザート、期待してるの、勉強になるし」
「莉佳はどうして渡部の店を辞めたんだ?」
「荻島君が結婚して独立するとは思わなかったの」
「莉佳の腕なら戻っても問題ないだろ……渡部のヤツがね、腕のいいパティシェが二人も辞めるとは思わなかったから、大打撃だって嘆いていた」
辞めて一ヶ月するけど、2年いた職場だからそれなりにオーナーや店の人たちが元気でやってるかなと、思い出すこともあった。
前の職場の人のことが、この人との会話に出てくるのってなんだか不思議な感じがする。
「姉を手伝いたいっていう気持ちもあったし……」
「アルバイトの子がいるんじゃなかったか? この前の水族館に行く時店頭でお姉さんと見送ってた若い子」
「駒田君は、父が店に出てた時からのバイトできてくれてる」
「あの規模で二人もパティシェは必要だと思えない」
「そうね、姉離れできないあたしのわがままよね」
「莉佳は姉離れして、俺と結婚した方がいい」
いちいちもう「はい?」と目くじら立てて問いただすのも飽きた。
笑うしかないよ。
「鳴海さんは、ほんと、おかしい人ね」
「女性にそういう表現を使われたことはなかったな」
「え?」
「『おかしい人』ねって。ジョークも洒落た会話も凝ってしてない相手から云われるとは思わなかった」
「おかしいよ、ものすごいジョーダンを連発するじゃない」
「?」
鳴海氏は、そんなことをいつ云ったのだろうといぶかしんでる。
そんなに考え込むことないって。
「いつも云ってるじゃないの。すごい冗談。あたしと結婚しようって……」
「それを冗談だと?」
眉間に皺を寄せて尋ねられた。
「うん」
あたしは莉紗姉みたいに、相手に飛び込めないよ。
自分が可愛いのよ、傷つきたくないから距離を作るの。
「お願いだから、今度のバーベキューで最後にしない? 黙って鳴海さんのご家族と一日過ごすから、鳴海さん、もうあたしに構うのやめてよ」
一日一日、時間が経つごとに、この人の事を考える時間が多くなるのよ。
あの初めての夜を、もうずっと繰り返して夢を見る。
それが苦しい。
だからは離れた方がいい。
いやむしろ逃げたい。
この人から離れることができれば、あれは夢だったと今なら思える。
「それは出来ない」
「……」
「莉佳、疲れてるのか?」
「……優しくしないでよ」
「どうして?」
「鳴海さんのしてることが迷惑行為だって訴えられなくなる」
鳴海氏はおかしそうに笑う。
そうだよね、おかしいよね。実際迷惑行為で訴えても、あんたそりゃー玉の輿ってヤツだから乗っちまえって誰もが口を揃えて云うに決まってる。
「莉佳のそういうとことろ、いいね」
ほら。この余裕。
この何もかも持ってるような男に太刀打ちできるわけないのよ。
あたしはわざとらしく溜息をついてみせた。
この時は、まだ、あたし自身、なんでこんなに思考がネガティブなのかわからなかった――。