HONEYMOON4




「玄関で『ただいま』って、云った時点で、すでにやばかったんですけど?」

歌声とは違う、話す時の奏司の声はハスキーボイスだ。
音域の広い石渡の楽曲を歌う為、かなりの高音域までの声はでるけれど、それは歌う時のみ。
耳元でそんな声でささやかれて、静は彼の膝の上に座ってる自分の状態と、彼の顔と、そして視界に入る室内を順に見渡していく。

「抱きしめた瞬間に押し倒したくなった。恋人と2人きりなんだよ。やること一つでしょ。どんだけ我慢強いの、オレ」
「……」

我慢強い……。忍耐力限界……。
確かにそうかもしれない。
静も、それは前々から感じていたことだ。
奏司は、付き合い始めに、静が云ったように、仕事の時はもちろんだけれど、移動中その他の場面でも我慢してる方だとは思う。
翌日は学校も午後からの講義で、仕事も少しだけの場合とか―――そんな予定がはっきりしていない限り、二人で夜を過ごすことはなかった。
でも、本日から1ヶ月は違う。
彼の仕事はない。
業界関係者に会うこともないし、彼は学生の本分を勤めていくだけ。
恋人同士の、誰も憚ることのない二人だけの時間……こういう場合は、奏司が常に、主導権を握ってきた。恋愛という点においては、もしかしたら、静よりも8歳も年下の奏司の方が、経験ありかもしれないと静は思っている。
静が何も云わずに視線をまたテーブルに戻して、黙ったままになる。
その状態を奏司は右手をテーブル左手をダイニングチェアの背もたれに置いて、彼女を見つめている。
普段はカッチリしたスーツに身を包んで、肌の温度や彼女の香りを確かめるのに、かかる時間と、今、この瞬間と比べると、全然違う。
手を伸ばして、彼女を抱きしめなくても、彼女は膝の上で、今はインナーを身につけていない薄いパジャマの生地越し、彼女の柔らかな身体と体温が密着する。
風呂上りだから、彼女の髪からシャンプーの香りが、いつもより強く鼻腔を刺激する。
静は、薄いレンズ越しに彼を見上げた。
両肩に腕を回して、彼の首の後ろで手を組み合わせる。
この行動に奏司は一瞬ドキリとする。
自分で彼女を引き寄せておいて、彼女がこういう行動に出るとは思わなかった。
びっくりして目を見開いていると……。

「じゃあ、ベッドで待ってる。Darling」

奏司の好きなその声が、信じられないぐらい艶を含んで耳元に届いた。
ちょこんと、軽く彼女の唇が、囁いた耳朶に触れた瞬間。
スルリと猫のように奏司の身体から離れて、静は寝室に向ってリビングダイニングから出ていく。
パタンとドアが閉まるまで、奏司の身体は金縛りにあったように、動かなかった。
ドアがしまった音で、奏司はようやく我に帰る。

――――――って、今のはっ!!

ガシっと目の前にあるグラスに入ってるアルコールを一気に煽って、タンッとグラスをテーブルの上に置く。
椅子をガタッと蹴倒すような勢いで立ちあがって、彼女が姿を消した部屋の方へと早歩きのような速度で追いかけた。

静は寝室のドアの前でほんの数秒考え込んでいた。

――――――今のはちょっと調子に乗りすぎたかな……。

そう思っていたら、バンッと背後からドアを開ける音がして驚いて振りかえる。
そんなことをするのは、今、ここにいるのは彼だけ。
だけど、ドアの開く音が大きく響いたのでビクッと身構えてしまった。

「な……何?」
「何じゃないでしょ」

彼女を抱き締めて、そのままベッドへと倒れ込む。
スプリングがギシっと音を立て、彼と彼女の身体が少し弾む。

「こっちが訊きたいよ。何、今の何?」
「こら、ちょ、レポートは?」
「煩い、今、アンタはオレのなけ無しの理性をふっ飛ばしてくれたよ!」

レポートどころじゃないと、彼は呟く。

―――――やっぱり調子に乗りすぎたかな。

「悪かったわ、ちょっと調子に乗りすぎた」
「うわー、この後に及んでそういうことを! お願いだから、さっきの科白をリピートで!」
「レポートは?」
「違う! その前、その前の科白!! ダイニングで最後に云った科白!」

かなり必死だなと静は思う。
その真剣さがおかしくて、静は抱き潰されそうな勢いなのに、クスクス笑う。
奏司はクスクス笑う彼女を見て、悔しそうに下唇を噛み締める。
これなのだ。
静の年齢と比較すると、彼女は恋愛に関して経験値が足りないと奏司も思う。
だけど、惚れた弱みとはこういうことを云うのだろうか? どこか彼女に敵わない気がする。
今の仕草だって不意打ちだ。
絶対ありえないことを時々する。計算なのか天然なのか。わからないから、目が離せない。
静は奏司の腕の中で身じろぎをして、両手で彼の頬を挟み込む。

「待たせてないじゃない。なんて云えばいいの」
「静がして欲しいことを」
「君が傍にいるから、もう充分」
「オレは足りない」
「……」
「抱きしめてキスして、それ以上のコトもないと、物足りない」
「じゃあ、抱きしめてキスしてそれ以上のコトも、あと……」
「何?」
「愛してるって云って」
「耳にタコができるぐらい云ってやる」

そう云って、彼は彼女の唇にキスをした