掴まえたい五つのモノ 夢物語のような幸福




「――――――マイケル・ステール監督、思いきって篠塚を起用だ。2メートル強の選手達の中で日本の篠塚が一際小柄に見える。身長188センチ。しかし、この巨人の中を潜り抜ける篠塚のスピード、ドライブテクニックは一級品といっていいだろう。弱冠21歳」

何度も、何度も聞いたアナウンサーの科白だ。
この映像を、雪緒はポータブルDVDプレイヤーで見ている。
筧が入院中の暇つぶしにどうだと、このDVD持ってきてくれたのは2週間前だ。
篠塚は、高校を卒業して、付属の大学に進み留学した。
その留学先でこのマイケル・スティール監督に目をつけられて、彼は世界に注目されるプレイヤーになった。
滅多にTVのスポーツニュースには取り上げられないバスケが、篠塚の活躍のおかげでちょっとずつメディアで取り上げられている。
「またソレ観てるんすか?」
雪緒のヘッドフォンを外したのは、吉住だった。傍には陽菜が立っている。
「いーじゃんよ、彼氏の勇姿をDVDで繰り返し見ても!! 彼女なんだから!」
吉住の手からヘッドフォンをっひったくる。
そして、ひったくったヘッドフォンを、陽菜は雪緒の手に戻した。
「入院中で退屈なんだよ! 彼氏はこのとおり!」
ビシっとポータブルDVDプレイヤーを指差す。
「アメリカだしっっ!」
陽菜の声を聴いて、雪緒は薄く笑う。
「彼氏……かあ……」
「あっ! またそういう」
「だって……ねえ? 篠塚がそう思ってるかどうかは、篠塚本人にしかわからないし」
「雪緒さん!」
「距離とか時間とかに、気持ちが負ける人だとは思わなかった」
篠塚がアメリカに留学して1年半経過しようとしていた。
吉住がいうと、雪緒はプレイヤーの電源をオフにして、ベンチから立ちあがる。
「ひどいなあ、この病人に、こんなグラスハートな私に」
「神経は鉄パイプな人だから、全然、なんともないでしょ?」
「ひどいな。惚れたはれた――――――とかじゃないし」
「まだ云うか!?  いいか、沢渡、こーゆ−人なんだぞ! お前が心酔するのは、こーゆ−人なんだぞ!!」
陽菜は耳に指を突っ込んであらぬほうに視線を向ける。
「まあ、……特別なのは……変わらないってだけかな」
陽菜はそらみろといわんばかりの表情で吉住を見上げる。
「そりゃ特別だよ、出てる試合は全部DVD録画だろーし」
「ブルーレイが希望なんだけど、筧と藤咲が泣くんだ」
衛星放送で、篠塚のチームの試合をこうやって録画しているのは、筧と藤咲の2人だ。
この2人にそんなことを言えるのは彼女しかいない。
屈託なく笑う雪緒の顔が酷く透明に見える。
綺麗な笑顔なのに、笑うたびに、生気が抜けていくように見えてしまう。
「雪緒さん、それは恋だろう」
「……」
「どーして云わないかなっ!?」
「吉住」
「なんすかっ!?」
「篠塚の試合、ブルーレイで撮ってきて」
「あんたが、電話なりメールなりで直接云えばいいんだよ、飛んでくるよ、あの人、地球の裏側にいても」
「吉住、キミはわかってない」
「?」
「篠塚に会うんじゃない、プレイする篠塚が観たい」
画質が良ければもっといいじゃないかと、雪緒は呟く。
陽菜は自分の上着を雪緒にかける。
「雪緒さん……屋上に出るとまだ寒いから、もう一枚羽織った方がいいよ」
雪緒の入院生活半年ほどになる。
空調の効いた院内で、季節感を感じることができるのはこの屋上ぐらいだ。
「ガラス越しの陽射しが暖かくて、外に出てみたくなった」
「それだけ元気なら、手術も大丈夫よね、看護師さんが捜していたよ。手術用に、血液摂って保管するんだって?」
陽菜の言葉に、雪緒は頷いた。
桜の花がほんのりと色づく春。
彼とはじめてあったのも10年前の春だった――――と雪緒は思い出していた。



あんなに惹かれあってるのに、恋だと認めない口には出さない。
いい加減、傍観側の人間が業を煮やしてきている。
「篠塚先輩、どうするんだろうね……短期契約だったけれど、なんだか向こうで活躍しちゃってるし」
「異例中の異例だろ、あんなの。監督だけが篠塚先輩に注目している。日本人プレイヤーなんて向こうじゃ期待していない。監督が推薦してチームのオーナーを認めさせるだけの実力があっても、結局どうなるかわからないから短期契約」
「サッカーとか野球なら注目度は全然UPなのに!」
「早くも向こうには日本の実業団のスカウトが飛んでいってるだろうってさ」
「大学どうすんの?」
「……いま休学扱いだけどなあ、そのままプロ入り濃厚だろ」
「日本戻ってくんのかなー?」
「……」
「先輩達は連絡してんのかな……雪緒さんがまた手術するんだって……教えてあげてんのかな」
手術の成功率が低いものだということも―――――……。
吉住は病院の敷地内に植えられている桜の木を見上げる。
もうそろそろ、桜が咲く。
先輩達からは何もその手の話はきかない。
「吉住はもう内定もらったの?」
「もらったよ」
「えー!!! 早い! あたしまだ決ってないんだよ! ヤバイ!!」
「雪緒さん励ましてる場合じゃないだろ?」
「それはそれよ!」
そういうと、陽菜は慌しくスケジュールを確認始める。
「うああ!!! 雪緒さんの手術日と面接が一緒の日!!!!!!」
「お前は面接行け! 当日はオレも先輩達もいるから!!」
陽菜は悔しそうに吉住を睨み上げて、絶対になんとかしてきてやると心の中で誓った。


――――――――距離とか時間とか……そんなもの、関係ない。

雪緒はDVDプレイヤーに映る彼を見つめる。
高身長の外人選手の中を掻い潜るドライブ。
そしてリングへと踏み出す。
空中を飛ぶ。
その鮮やかさにギャラリーからの歓声が沸く。

――――――――こうやって、彼のプレイを観る為に、生きている。

飛べなくなった自分の代わりに、飛んでやるといった。
雪緒が目指すものを、見せてやると誓ってくれた。
じゃあ、自分が篠塚の足枷じゃないことを証明しろと、留学を促したのだ。
彼は留学した。
これがその約束の証だ。
これが総てだ。
だから、また手術を受ける気になった。
手術さえ受ければ、また、生きられる可能性が高くなる。
そしたら、まだ、こうして彼のプレイを観ることができる。

―――――――その為の手術なら成功率が低くても受ける。

雪緒は電源をオフにして、モニタを閉じたDVDプレイヤーを愛しそうに、掌で指先で包み込んだ。
窓の外の桜が、もうすぐ満開になる。
満開の桜の時期に手術……失敗したら、自由の効かない身体を焼いた煙が、桜の花びらに送られるのだ。
それだって悪くはないなと、雪緒は思った。



「じゃ、母さん……みんな、いくね」
手術当日。ストレッチャーに乗せられて、手術室前に自分の母親と――――篠塚と同様、初等部から一緒にいる桜庭、藤咲と筧と吉住が足を運んでくれていた。
「陽菜ちゃん、内定とれるといいなあ」
「沢渡のことはいいから」
「祈っててあげる。効き目は抜群だよ」
「自分のこと、祈れよ」
「そっちが大事っすよ」
「うん、大丈夫、祈った祈った」

軽く、あしらうように云って笑った。
そして、ストレッチャーは手術室のドアの向こうに運ばれていき、ランプが点灯した。
手術室で待つ人間には、この後の1分1秒がなんと長く感じられることだろうと思う。
1時間経過したころに、陽菜がリクルートスーツのまま、手術室前に走りこんできた。

「沢渡」
「陽菜ちゃん」
陽菜は肩を激しく上下させて、その場にいる人々を見る。
「雪緒さんは?」
「まだ――――――……」
桜庭が説明しようとするが、その言葉は途切れる。
桜庭の視線は陽菜から外れて、陽菜が走ってきた廊下の方に移される。
その桜庭の視線を追うように、藤咲も筧も吉住も、陽菜の後ろの方に視線が移る。
陽菜も釣られて、自分の後ろを振り返ると――――――……。

アメリカにいるはずの、彼がいた。

「篠塚……」
「先輩……」

陽菜とは違って、肩で息もしていない。

「葛城は……?」

彼のことだ。
成田から直接、ここまで来たのだ。
陽菜は今まで全力で走ってきた疲労と、彼の登場に驚いてへたり込みそうになるが、吉住が陽菜の腕を掴む。
「始まって何時間だ?」
篠塚の言葉に筧が答える。
「5時間。予定どおりなら、とっくに終ってもいい」
手術室前のランプが消える。
ドアが開くと、一斉にその場にいる人間が、息を呑んでドアに注目した。



うっすらと目を開ける。
ぼんやりとした感覚。麻酔が切れそうな感じがするなと、雪緒は想う。
見慣れた病室、ベッドサイドには持参してきた小物類が目に入る。
ベッドサイドにいる人間を見て、自分は夢を見ているのかもしれない、現実はまだ手術中で、コレは夢かもしれない……でなければ……。

「手術、失敗したのかな……」
「?」
「夢を見ているみたいだから」

目が醒めたら、会いたい人が傍にいる……それが現実にあるとは思えない。
篠塚は、大事なものに触れるように、雪緒の頬にかかる髪を指先で払う。
TVでも、硬質な表情だと評価されている彼は、彼女を見つめる時だけは、穏やかで優しい。
いつもそういう顔でいれば、女性ファンだってもっとつくのにと、雪緒は思っていた。
自分に触れる彼の指先を、握る。
暖かな体温。
リアルな夢だなと思う。

「篠塚……会いたかった……」
「……ああ、会いたかった」

その体温も彼の声も、本物だ。

「あれ……」
「何?」
「夢……じゃない?」
「夢じゃない、現実だ。戻ってきたんだ」
「どーして……」
「シーズンも終るし、契約も切れる。お前が手術するって聞いて、身体一つで飛行機に乗ってきた」
「篠塚……」
「よく頑張ったな」

自分が、いつもDVDの録画に収まる彼にかけた言葉を―――、彼からこうやって云われるとは思わなかった。
じわっと目尻から熱い液体が流れ落ちる。
この涙も、本物だ。

「夢じゃない……」
「ああ」
「なんかすごく幸せで……夢みたいだ」
「夢じゃない、現実だ」
「篠塚……」

雪緒はベッドの中から両腕を伸ばして、彼を呼ぶ。
篠塚は小さな子供を抱き締めてあやすように、体重をかけないで雪緒の上半身を抱きすくめた。
その腕の力強さ。
彼の香り。
夢じゃないと、確かめるように、雪緒は篠塚の背に腕を回す。

「みんなには……好きとか嫌いとかじゃないって云ってたけれど――――」
「……」

雪緒は目を閉じた。

「本当は、声をあげて、叫びたいほど……もうずっと……キミが好きだった」
「知ってる」

彼の声を耳にして、雪緒は目を見開く。

「惚れられてる自信がなければ、アメリカになんかに行けないだろう」

いつも夢見ていた、彼の声だった。

「ただいま、葛城」

コツンと雪緒の額に自分の額を合わせる。
至近距離で視線を会わせて、今まで離れていた時間も距離も相殺される。

「ずっと前から……愛してる」

ゆっくりと篠塚は身体を離して、ジャケットのポケットから小さな包みを取り出して、雪緒に渡す。
その包みの大きさに、どきどきする。
ドラマや映画で、良く見る大きさの包み。
彼から渡されることは、永遠にないかもしれないと思っていたもの。
篠塚は雪緒の手をリードするように、二人で包みを開ける。
ビロード張りの小さなジュエリーBOX。

「いいの? これ」
「他の誰にやるんだ」

蓋を開けると、透明で煌く光。

「俺は、これからもずっと、お前を愛してる」
「……わ……私も――――――……」

ほんの少し、緩いリングを左の薬指に填める。

「これからも……ずっと……愛しいく……智嗣……」

填められたリングを右手で包み込む。
その暖かさは現実。
雪緒の手を篠塚が包み込んで、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
唇を離して、また互いの額をこすりあわて。
柔らかな視線が絡み合う。
互いの温もりで感じる。
今までの過ごした時間も、抱いた感情も、全部この瞬間の為に必要だった。



この―――――夢物語のような幸福感の為に……―――――