深淵の黒き森





どれぐらい走ったのだろう。息もきれ酸欠状態になりながらアレクは足を止めずにメリッサの腕を引いて森を走る。
おかしい。いつもならもっと走れるはずだったのに、身体がいうこときかないような、足だけでなく、身体全体に何かかがまとわりついて、それだけでなく、そのまとわりついた何かが入ってくるようなそんな感覚。
 しかし、足を止めるわけにはいかなかった。

 「アレク様……大丈夫ですか?」
 「もう少し頑張れるわ、メリッサ。森に森に入って3日よ。子爵領からは、かなり離れた」

 この森に入った頃は、追っ手の気配もなく、できるだけ距離を進めようと勤めた。子供と女性の足で森に入ったら、そうそう深くは距離を進められないだろうとアレクも考えていた。
 最後の町で見た追っ手は馬を使っていたので、森に入れば馬もそんなに速度をつけることはできないはずだと……その期待は、鳥のさえずりに重なるよう馬のいななきが聞こえたことにより裏切られる。
 
 「いたぞ!!」
 「深淵の黒き森とはいえ普通の森だな、赤い髪が目立つから存外見つけやすかったな」 
 あっという間に距離を縮められて、馬上に乗った男たちに囲まれる。
 メリッサがアレクを自分の背に隠すように立ちふさがる。
 
 「アレクサンドライトだな」

 メリッサもアレクも無言だった。
 答える必要はないし走り続けて息もきれ、まともに声が出る状態ではなかった。

 「赤髪、金眼だ……っ翠色の眼か?」
 「光に加減でそう見えるって依頼書にあった間違いねえな」

 そう言うが馬上から降り剣を抜く。

 「お付の侍女もヤッていいんっだっけ?」
 
 残りの男達も馬上から降りてアレクとメリッサを取り囲む。
 
 「いいんじゃね? とにかくアレクっていうそこのガキは、生かしてだろうと殺してだろうと確たる証拠を持っていかねーと、残りの依頼金はもらえねえからな」
 「貴族のお嬢様にみえねえな」
 「帽子をかぶりゃ、見つけにくいだろうと、オジョーサマにしては思い切って断髪したのに残念だったなあ」



 ―――お嬢様なんかじゃない。お父さんもお母さんも普通の人だった。普通の薬師で町外れに済んでて、ひっそり暮らしてた。



 なのにある日、豪華な馬車に乗った貴族がきた。
 その日からアレクの生活は一変した。
 それまで穏やかだった生活が、不穏なものになったのだ。
 学校にいって仲良くしてた友達が、遠巻きにアレクをみるようになり、両親の仕事も似たような状況になり、転々と領内を移動するようになり、そして……両親は事故に会った。
 一人になったアレクは心細い気持ちを表情には出さなかった。
 なぜなら傍にはメリッサがいたからだ。
 彼女は両親の仕事の手伝いをしてくれてるだけと思っていた。
 しかし、それだけではないのかもしれないと、住んでいた町から逃亡生活に入った頃、まだ幼いアレクにも感じるところはあった。
 この領内の逃亡生活に、彼女もついてきていたからだ。
 まだ若い彼女をこの逃亡生活に巻き込んでいるのは、なぜだろうと……。
 両親ならば、家族でもない彼女にこんな逃亡を強いることは本来ならしないはずなのに、いやもしかしたら……両親が逃げている貴族が、一人になった彼女を捕らえるかもしれないと危惧したのだろうかと……。
 
 遺体も骨も発見出来なかった海岸で、両親の為に野花を摘んで捧げていた時、メリッサがアレクの手を掴んでこう言った。



 「アレクサンドライト様、逃げましょう。この領内はラース子爵の土地です。お父上の故郷に逃げましょう。メリッサがお供します」
 それまで普通の町娘のように、振舞っていたメリッサが突如そう改まった口調でアレクに膝を突き語りかけた。
 「お父上は辺境伯爵の縁戚、深淵の黒き森をぬけ、迷宮都市ペンドラゴン辺境伯爵領に行きましょう」
 「迷宮都市……ペンドラゴン……辺境伯爵領……。辺境伯爵の縁戚……お父さん……貴族だったの?」
 「庶子ではありますが辺境伯爵の後継のお一人でした」
 庶子ってなんだろうとその時のアレクは思った。
 後継の一人とは、他にも後継者はいるのだろう。
 「ラース子爵は辺境伯爵の甥御様です。辺境伯爵の後継を強く望んでいて、アレクサンドライト様のお父上を追い詰めたのです」
 「追い詰めた……とかじゃなくて……殺したんだよね」
 意外なほどの落ち着いたアレクの口調に、膝を突いてたメリッサはアレクを見上げる
 「メリッサはどうしてお父さんについてたの……?」
 普通の町娘ではない、多分辺境伯爵に仕える侍女のような、そんな立場なのだろうと、今の会話に端々からアレクにも推察できた。
 「命を助けられた恩がざいました。このメリッサ。アレクサンドライト様を命ある限りお守りします」
 アレクは膝をついて自分の手を握るメリッサの手を握り返す。
 「じゃあメリッサはずっと傍にいてね」
 泣き出すのかと思っていたが、その瞳には涙はなかった。
 夕日の閃光の加減で、アレクの緑金の瞳が金に変わっていた。


 ―――行こう……迷宮都市へ……。

 

 薬を売りながら路銀を稼ぎ、ようやく子爵領の境に、深淵の黒き森の入り口にまできた。
 迷宮都市を目指すなら陸路はここを抜けるしかない。 
 北周りは国境になるガレリア山脈が連なっていて人は抜ける事ができず、海路だとラース子爵の手が回っている上、逃げ場がない。
 だとしたら辺境伯爵領と子爵領を挟む深淵の黒き森を抜けるほうが、まだ追っ手の回避ができるとアレクとメリッサは二人で相談した。 しかし、子爵の追手は領内を抜けた二人を追ってきた。



 「ただ殺しちまうのも惜しいよな〜」

 男の一人が下卑た笑いを張り付かせながらメリッサに近づく。
 メリッサはその男に突進しすれ違いざまにナイフで男の首を掻ききった。
 血飛沫があがる。
 ナイフで切られた男は地面に前のめりに倒れた。
 まさかの反撃に男達はたちまちメリッサを取り囲む。
 「お逃げ下さいアレクサンドライト様!」
 「やだっ! メリッサも一緒にっていった!」 
 男が振り上げる長剣をナイフで受けながら叫ぶ。
 「すぐに参ります」
 「なめんなこのアマ」
 「メリッサに手をあげるなー!」
 男の一人に向かって石を投げつける。
 「このガキ!」
 男の一人に蹴り飛ばされる。メリッサがアレクをかばうようにアレクに近づいたところでメリッサの背後へ男の剣が一線走った。
 血飛沫がアレクの頬につく。
 「……お逃げ…ください……」
 「メリッサ……いやだ、メリッサ」
 アレクはメリッサにすがりつく。
 「おい、さっさとガキもばっさりやっちまおう」
 「薬、治すから、わたしの薬きくから」
 メリッサは儚げに微笑むと、最後の力を振り絞り、身体を反転させて自分を切りつけた男の胸にナイフを突き刺す。
 急所を一突きだったようで、男は仰向けに倒れ、メリッサはその場に膝から崩れ落ちた。
 残った男が毒付く。
 「チッ二人も殺っちまうなんて、なんてアマだ」

 「メリッサァァア!!」

 アレクは這いつくばりながらも、メリッサの身体に手を伸ばす。

 ―――命を助けられた恩がざいました。このメリッサ。アレクサンドライト様を命ある限りお守りします。

 わからないことだらけだ。
 普通の日常からのこの変化。
 身分ある貴族に追われる身になった自分達。
 そして追手に殺された両親。
 目の前の出来事が夢だったらいいのにと思う。
 でもこれは紛れもなくアレクにとっての現実だった。
 親が亡くなっても彼女がいたから生きてこられた。
 二人の短い逃亡生活、苦しいけれど、でも耐えられた。
 彼女がアレクにとってたった一人の残された家族のように思えて。
 その彼女も今、動かなくなった。
 これは夢じゃない……蹴り飛ばされた弾みで口の中が切れ、鉄の味がする。
 森の中に入った時から感じていた倦怠感がなくなった。
 変わりに、身体中の血液が沸騰するよな熱さがある。

 「だが。お前のその首を子爵にわたせば任務完了だ」

 男が剣を振り上げた時、焦げ臭い匂いが男の鼻についた。



 その瞬間。
 男とアレクの間に炎が広がる。
 


 
 ―――お父さんもお母さんもメリッサも……いない世界になった……。消えてしまえばいいこんな世界……。


 返り血を浴びて、アレクは男を睨み上げる。
 腫れ上がった頬に流れ落ちる涙を拭い、口の中の血を吐き出した。
 
 「お前……魔術師だったのか……聞いてねえぞ、おいっ!」

 ―――うるさい、お前なんて死ねばいい……。

 男の周囲を炎が取り囲む。男が騒げば騒ぐほど、炎は勢いを増して男を取り囲む。
 
 「ヤメロ! あちぃ」

 ―――この炎が……わたしの魔術なら……どうしてもっと早く使えなかったのかな。

 ぼんやり考えると炎の勢いが少し弱まった感じがした。
 男は炎の輪から逃れようとする。 
 その様子を見てアレクは眼を眇めた。

 ―――逃がすものか……。メリッサを……お父さんとお母さんを殺しておいてっ!!

 アレクの感情に反応したように、炎の勢いが強くぶり返す。
 森の草も木もアレクの炎に焼かれ、音を立て、男の断末魔すらも飲み込んで燃えていく。、
 

 ―――この魔術があればお父さんもお母さんもメリッサも守れたのにな。
 ―――どうして必要な時に使えなかったのかな……。でもいいや燃えてしまえばいいんだ……全部。目の前の男も、森も、子爵領も子爵も……この世界全て。



 炎に照らされて、アレク自身の髪と瞳の色が変わっていた。
 でも本人はもちろん知る事はない。
 


 ―――もう全部、全部……燃えてなくなればいい……。



 冷たくなったメリッサの亡骸にすがりつき、10歳のアレクはすすり泣き始めた。