さようならは云わない 後編
チャイムの音が遠く聞こえてくる。
起きあがる時、身体が重く感じた。
その理由は直ぐにわかった、自分の身体に、学ランがかかっていて、暖かかったからだ。
それに気がついたのは、起きあがった瞬間、自分の肩から黒いその制服が滑り落ちたから。
莉奈はキョトキョト周囲を見回す。
「起きたか?」
本棚の方を振り返ると、安斎がいる。
「安斎先輩……」
は慌てて安斎の学ランを畳む。
「すみません。ありがとうございました」
「よく眠れたか?」
「はい……」
彼は制服を着ると、莉奈の頭を軽くポンポンと叩く。
莉奈は切なくなって泣き出しそうになるのを堪えた。
「じゃあ、帰るぞ」
「はい。お疲れ様でした」
はペコリと頭を下げる。
安斎がその場を立ち去る気配がないから、不思議に思って顔をあげると、安斎は口許に手をあてて笑いを噛み殺している。
「あの……」
「秦野を送っていくつもりなんだが……」
「え……え――――!!! あの、その、えっと」
「迷惑か?」
莉奈は激しく首を横に振る。
「あの、あの、荷物、持ってきます」
「ああ。正面玄関で待ってるから」
「はい!!」
莉奈は脱兎のごとく、教室にもどり、自分の鞄を鷲掴みにすると階段を駆け下りた。
上履きをしまい、ローファーに履き替えて、安斎の後姿を確認すると、切れる呼吸を整えて、安斎に声をかけようとするが、足を止める。どうやら彼に話しかけている女子生徒がいるらしい。
「ごめん。お願い」
「構わない、机の中に入れておく」
「ありがとう。じゃあね」
女子生徒はどうやら校章のカラーから3年らしい。
3年の女子生徒が立ち去るのを確認して、安斎に近づく。
「あ、お待たせしました……安斎先輩……
安斎は莉奈を見ると、優しい表情をした。
眉間に皺をよせていたり、ともすると無表情だと思われがちな安斎が、時々、こういう表情をするのを、近くで見ることがる。
こういう彼の表情を見ることが出来た時は、自分の力を超えてまで頑張った甲斐があったと、いつも思ったものだ。
「今のは……」
「ああ、サイン帳を頼まれたんだ」
「そうですか……」
サイン帳。
そういうものが、もう安斎の周りでは回っているのだ。
彼は卒業するんだという実感をまた強く感じた。
「やっぱりちょっと、寂しいです」
「そうだな」
安斎から思いがけない肯定の言葉を訊いて、は安斎を見上げる。
「意外です……先輩は、なんていうか……」
「一応人並みにそういう感傷も持っている例えば――――……」
そう云って、莉奈の頭を軽くいつものようにポンポンと叩く。
「秦野の頭をこうすることもできなくなる」
(うひゃ―――、先輩、誤解しそうですから、それ!!!!)
「いつも、頑張っているからな。秦野は」
莉奈の動きが止まる。
(誤解しそう……いつも、見ててくれたのかな?)
莉奈は安斎の数歩後ろをついていく。
そして校舎を振りかえる。
もう、あの校舎で、彼を見ることはなくなるのだ。
さっきのように、生徒会室や図書室―――――……教室移動で、すれ違う廊下や階段。
授業中にこっそりのぞいた、校庭で体育の授業を受けているところや……。
テニスコートにも……。
彼の姿を見ることはできなくなる……。
(あ……もっとテニスしてる先輩、見とけばよかった……知り合いに頼んで誰かが隠し撮りした写真があれば焼きまわししてもらおう)
「……莉奈……?」
(な、名前呼び捨て? 今、呼び捨てされました?)
「?」
「あ、あの、せ、先輩……」
(嬉しいけれど!! 嬉しいけれど……できればもっと前に呼んで欲しかったよ……。莉奈って、莉奈って、呼んで欲しかったよ……)
「泣きそうですうぅ―――――」
素直に言葉が出てきてしまう。
やはりこれが最後だと思うと、本当に切ない。
感激もあるけれど、それよりもやっぱりそんな風に名前を呼んでもらっても、もう、彼はいなくなる。
「おいおい」
「だって、もう先輩に逢えないしっ。もう、あの校舎には先輩はいない……もっとたくさん、先輩にはいろんなこと教えてもらいたかったし、それに、それに」
顔も目も真っ赤になって、溢れてくる涙を止めることなくを続ける。
「もっとたくさん――――……ポンポンって……」
安斎はの頭をいつものようにポンポンと軽く叩く。
その反動は弱いながらもの瞳から涙を零させるには充分だった。
「……」
「俺も、こうして、莉奈の頭に触れられなくなるのは、少し寂しい」
パタパタと涙の粒が、ローファーにしみていく。
「さっき、後任の生徒会長が、莉奈の頭をこうした時、特に……そう感じた」
「私……安斎先輩に、頭のポンポンしてもらうと、ものすごく、頑張れたんです。でも、さっき、生徒会長にしてもらっても、あんまり仕事やる気でなくて……安斎先輩は……特別なんです」
彼の手が、莉奈に、前向きさや頑張りの魔法をかけてくれる。
莉奈は鼻をすすり上げる。
安斎はハンカチを差し出す。
有難うございますと、礼を云ってから、ハンカチを受け取る。
「お願いがあるんです」
「?」
「記念にボタン頂けますか? ダメなら校章でもいいです! あと、あと、できれば写真も撮りたいです! それから、えっと、サイン帳でも色紙でも用意しますから、なんか、一言お願いします」
「……それ全部か?」
「ダメですか? だって、だって、先輩卒業しちゃうと、私、頑張る気持ちがなくなりそうだから、それ見て傍に置いて、頑張りたいんです……じゃないと、卒業おめでとうございますも、さようならも云えない……」
感極まって泣き出すの頭を安斎は撫ぜる。
「わかった。それは構わないが……俺からもお願いがあるんだが」
莉奈は安斎のハンカチを握り締めて、彼を見上げる。
安斎からの「お願い」なら、今ならなんでも出来そうだ。
「私でできることなら、なんでも云ってください」
それがとても難しいことでも、今ならなんでも挑戦できそうだ。
「簡単なことだから、そんなに気負わなくても……」
彼女のひたむきで真剣な表情をみて、安斎はついつい、笑みを零す。
そしてまた、莉奈の頭をポンポンと軽く撫ぜる。
「莉奈は携帯持ってるか? 電話番号とメールアドレスの交換だ」
春は卒業のシーズンだけれど、新しい出発のシーズンでもあるんだと、安斎が柔らかで優しい声でにそう告げた。
「だからは俺に『さようなら』は云わなくていい」
莉奈は泣きながら何度も頷いた。
先月よりも暖かな風が、梅や桃の花びらを、雪のように散らす。
それが、風に運ばれて、安斎の肩にかかって……。
涙に滲んだ莉奈の瞳に映る彼は――――――……やはり、すごく綺麗な人だと思わずにはいられなかった。
END