Extra ラスト・ゲーム ゲームセットの後で
試合終了後、梅の木公団の集会所を借りて、ファイターズの卒団会が行われた。
6年のみんながそれぞれ最後の挨拶をすると無礼講になった。
集会所には香ばしいもんじゃ焼のソースの匂いが満ちて、試合でスタミナを使いきった少年たちが、小さなヘラを片手に、そのもんじゃを味わう。
気がつくと、トーキチはそんな喧騒の中、ろくにもんじゃも食べずに、ヒデの弟、朝晴と一緒に、集会所の隅っこに倒れて眠っていた。
リトルのメンバーの保護者が、集会所を片づけ始める時、ヒデはトーキチを起こした。
「起きろよ、トーキチ。風邪ひいちゃうぞ」
なかなか目をさまさなかったが、ゆっくりと、意識が覚めてきたようだった。
「ヒデ……みんなは?」
「もー帰ったよ」
「早!」
「トモは? 一緒に寝てたんじゃないの?」
トーキチはキョロキョロとあたりを見渡す、もう2,3人のおばさんが台所で食器の後片付けをしているだけだ。
「さっき、かーちゃんが連れ帰ったよ、おまーほんと、トモ好きだな」
「いやートモあったかくてさーついうっかり寝ちゃったよ。澤田は?」
「岡野んちにいったよ。三倉も」
「あそー」
「お前、疲れたんだから、家に帰って寝なおした方がいいぞ」
「んー」
トーキチは自分の腕や肩を片手で軽くもみほぐして立ち上がる。
後片付けのおばさん達に挨拶して、トーキチとヒデはエレベーターに乗り込んだ。
今朝、ゲーム前、このエレベーターに乗った時、ささやかな昂揚感があった。
ゆっくりと浮上する小さな箱の中で、今日のゲームを反芻していた。
さっきのうたたねのせいで、疲れはさらに増していたが充足感がある。
試合は終わった。
あれが、最後のゲーム。
ヒデのリード。あのストライクでアローズ4番を打ち取った。
審判の「アウト! ゲームセット!!」の声が、まだ耳に残る。
後悔は、もう、なかった。
この先、小学校を卒業して、引っ越して中学校に入って。
今までとは違う、生活を送ることになる。
野球とは、もう、おしまいだ。さよならだ。とトーキチは思った。
「なあ」
「うん?」
「さっき、7回表でいいかけたことってなんだよ」
「7回?」
「今、反省するとテンションが下がるとか云ってたじゃん」
トーキチは思い出して「ああ」とつぶやく。
さっき、卒団会の時、ヒデは、「プロになりたい」と云ったのだ。
小さい頃、トーキチが夢見たプロ野球。
ヒデはそこへ挑戦すると云った。
「ヒデはさー」
「おう」
「ピッチャーやりたいとか思う?」
「……」
「みんな一度はやってみたポジションだもんね」
「確かに、でもオレキャッチャーやってみてさ、キャッチャー次第だなって思うわ」
「キャッチャー次第……」
「キャッチャーが、トーキチならいいな」
「……」
「すっげーいいリードしそうだもん」
トーキチは笑う。
「そうかな」
「そうさ、オレがピッチャーやったら、トーキチがキャッチャーな」
「そう云われると、嬉しいな」
「素直だな、どーした。明日雨でも降るか」
トーキチは苦笑する。
「三倉に対してもヒデに対しても、ううん、それだけじゃない。チームに対しても、あたしは、自分を押し通してきた、我を張ってきた、譲らなかった。だから、ヒデにそう云ってもらえるとは思わなかったよ、そこはね、もうずっと実は反省してる点だった。みんながやりたいことを、ピッチャーを、あたしが譲らなかった」
二人はゆっくりと点灯するエレベータのボタンを見つめる。
「だから、ごめん、ヒデ。でも――――――」
「……」
「ありがとう」
野球ができてよかった。
ピッチャーになってエースになってよかった。
でもそれはヒデがいたから、できたことだ。
半ば強引に野球に引きずりこんだとトーキチは思ったこともある。でも、ヒデはヒデで、野球を選んでいたんだ。
エレベーターが止まった。
昭和40年代後半に建てられたこの公団のエレベーターは、古めかしいブザー音がする。
スパイクを鳴らせて、エレベータホールに出る。
ここで、いつもキャッチボールをしてきた。
―――――それも、終わりだ。ヒデはこれからも、野球をやっていく。あたしがいなくても。
ホールからでて廊下の奥の自分の家に向かって、トーキチは歩き出す。
「トーキチ」
背後から、ヒデが声をかける。
トーキチはその言葉を聞いて、振り返る。
ヒデはいつものように、屈託のない笑顔を見せる。
「そんなしょげた顔すんなよ、勝ったんだしよ」
「しょげてない」
「反省なんて、トーキチらしくねーぞ」
「らしくない……」
「そうだよ、今まで云わなかったけどな、お前、ピッチャーとして文句無しにカッコイイよ。オレの憧れだよ」
「ヒデ……」
「だからまた、キャッチボールしようぜ」
トーキチはその言葉に、無言で手を振り返した。
この時、ヒデが云った言葉どおりのキャッチボールは、引越しの準備や卒業の準備で、実現はしなかった。
しかし、ヒデのこの言葉はトーキチの胸にいつまでも響くこととなる……。
そしてこの後、このヒデとトーキチは互いの気持ちをこれ以上は伝えずに別離と再会を繰り返していき――――。
意味合い違うけれど、十数年の時を超えて、互いの存在を確認するために同じセリフを、ヒデはもう一度、トーキチに伝えるのだ。
―――――キャッチボールしようぜ。……と。
END