極上マリッジ 19






大き目の旅行バッグ二つ分の私物を片づける間に、このでかいマンション内で頻繁に足を運んだのは、やはりトイレである。
何コレ。何このつわり。つわりってこんななの?
何度も吐き戻しては、洗面台でうがいをする。
家を出る前にあらかた吐いたので、固形物が咽喉を通る感じはなく酸っぱい胃液だけなんだけど……。
「莉佳、無理するな。片づけはやるから」
「もう終わった……」
「じゃあ、少し横になってろ」
本来なら、そうはいかないと反論するところだ。
アンタのランチどうするのさ。
けど、吐き戻しながら料理したとして、この人食べたくなるかもしれない。
それに疲れた。
これだけ吐けば、疲れもするよね?
「でも、お昼ごはん支度しないと……」
「いいから、莉佳、おなかすいた?」
「いらない……」
口に何か入れた時点で吐きそう。
「なら、横になってろ」
あたしはリビングのソファに腰を下ろす。背もたれに身体をあずけると、ズルズルっと横たわった。
「違うだろ、ちゃんとベッドに入る!」
「だってここがトイレに近いと思うしー?」
「上の方にもバストイレはついてる! ちゃんと寝室で寝る」
そう云うが、思いっ切り抱きあげられた。お姫様だっこ!?
ちょ、いくらなんでもここ数日で痩せたけれど、でもお姫様だっこで階段登れるものなの!?
体温も呼吸もすごく近い……。
ドキンと跳ねる心臓の音が漏れ聞こえるんじゃないかって、思うぐらい近い。
力強く抱き上げられて、まるで自分が小さな子供になったみたいで。
すごく守られてる感じ……。
こんな風に抱きしめられていると、黙るしかないっていうか、言葉が出てこない。
口を開けば、鳴海氏との距離を取ろうとするいつもの言動が、一気に消え失せてしまう。
ここがあたしの居場所なんだって、そう思えてくる。
甘えても頼ってもいいんだよって……。
この人にふさわしくないってわかってるのに、このままこうして傍にいたくなる。
だけど。
「や、やだ、おろしてよ、自分で歩くから! これ、逆に怖いから!! 揺れで吐いたらどうする!? って、人の話を訊けー!」
イケメン相手にこうやって抱えられるのって女子の夢とか思うかもしれませんが、夢は夢で現実にやられると、気恥ずかしいわ!
何よりも、あたし、世間様から見てデブではないとは思うのですが、そこはやっぱり自分の体重にはそれなりのボリュームを自負しているところなのよー!
そんな心の叫びが鳴海氏に届くはずもなく、結局、姫だっこで抱えられて、主寝室のでかいベッドにすとんと降ろされた。
敢えて、主寝室は観たくなかったのにいきなりですか!?
下にもベッドのある部屋ありませんでした?
そこでいいじゃん、トイレも近いし!
うわああぁぁートイレトイレと気にするところが、またいやだわ。
まるで介護されてる御老人な気分になること請け合い。
そんなあたしの心の声はさすがに鳴海氏には届いてないとみた。
「大人しくちゃんと寝ろよ!?」
もうめっちゃ命令系でも、反論できないわ。
今のあたしにはいちいち鳴海氏に反抗する気力はない。
「わかってるよ……」
「俺は隣の部屋で仕事してるから、何かあれば呼べ」
鳴海氏にきつくそう云われ、あたしはただ無言で、首を何度も縦に振る。
ドアの外に鳴海氏が出て行くと、あたしはスプリングの効いている座り心地のいいベッドの上に、上掛けも捲りもしないで、倒れ込む。
「役立たずを引き取って、何がしたいんだろ……あの人……」
そう呟いて、目を閉じる。
ふわんとした感触に、身体全体が包まれると、意識がゆっくりと遠ざかった。



「一気にお食事されるから吐き戻されるんじゃないんですか?」
「そうなのか? よくわからないんだが」
「お部屋のルームコロンを代えてみるのも手ですよ、それから、ぼっちゃま、タバコはやめてくださいね」
「節煙中だ」
「いっそきっぱりお辞めになられたらいかがですか?」
ドアの外からぼそぼそと声が聞こえてくる。
あたしはのそっと起き上って、ジーンズのポケットに入ってる携帯の時計表示を見ると、正午12時を少し過ぎたところだった。
すっごく眠ってしまった気がする。
やっべ、こんな上等なベッドの上でグースカ寝こけてしまったけれど、あたしヨダレとか垂らしてませんよね?
ベッドサイドのテーブルに、封を切られていないミネラルウォーターのペットボトルが置いてあった。ものすごく咽喉が渇いていたので、遠慮なくそれのキャップを捻って咽喉に流しこむ。冷たくて無味無臭の水が胃に沁みる。
立ち上がると目の前がふらりとする。貧血かなこれ。
ペットボトルを片手に、ドアを開けると、隣の部屋のドアが開いていた。
「お昼はサラダうどんにでもしますか? さっぱりしてて、莉佳様もそれなら食べられそうでしょうか?」
あたしはひょっこりと話し声のする部屋のドアを覗き込む。
「莉佳」
正面のデスクに座っていた鳴海氏が、あたしに気がつく。
声は鳴海氏と、50代ぐらいの小柄な女性のがいて、その人との会話だったのだろうか?
女性はあたしの方に振りかえる。
「あら。起こしてしまいました?」
「い、いいえ」
鳴海氏はパソコンのキーボードを叩いて、作業を中断し、あたしの方へ来てあたしの頬を片手で撫でる。
「大丈夫か?」
「うん……」
「莉佳、こちら菊田さん、両親の家で家事をしてくれてて、こっちにも週一で足を運んでくれる」
「は、はじめまして」
「はじめまして、菊田です。おめでとうございます」
「え?」
「ご結婚とお子様のことです」
「は、はい……」
寝起きで頭が働かない……。いつもなら結婚も出産のことも、大慌てで否定するところだけれど、ぼんやりしてるし。
それに、やっぱり鳴海氏に肩を抱きかかえられてるせいもある。
あたし、スキンシップに弱いのかなー?
「顔色、よくないですねー赤ちゃんの為にも貧血防止のお食事も考えないと……」
「あ、あの、お昼ごはんの支度なら、あたしも作ります」
菊田さんはあたしの顔と鳴海氏の顔を見比べる。
「じゃ、お手伝いしていただきましょうか?」
菊田さんの言葉にあたしはすぐさま返事をする。
「はい」
「莉佳、おまえ、さっきまで動いて倒れてたんだから無理するな」
「ゆっくり寝たし、平気」
あたしがそういうと、菊田さんはうんうんと頷く。
「じゃ、ぼっちゃま、出来たら呼びますので、そのままお仕事されてて大丈夫ですよ」
「菊田さん、それ、やめて」
「ちゃんとご結婚できたら、『ぼっちゃま』とは云いませんよ」
あたしはそのやり取りに噴き出しそうになる。
でかいなりをした彼をぼっちゃま呼び。
いいとこのぼっちゃまなんだろうってわかってるけれど、実際、呼ばれてる様を見てると笑いが隠せない。
「プロの料理人なんですって?」
「いえ、ただお菓子を作る人で、きちんとした料理はあまり」
「信悟様の奥さまはもうべた褒めでしたよ、おいしいって。ああ、信悟様は慧悟ぼっちゃまの兄にあたる方で」
「先日、バーベキューをご一緒しました」
「はい、伺ってます」
「……」
「近いうちに旦那様と奥様にもご挨拶されるんですよね?」

……向こうの両親にご挨拶したら、退路を断たれたも同然のような気がする。
あたし、往生際悪いなー。

「菊田さん」
「はい?」
「鳴海さんには、他にお付き合いされてるような女性はいませんか?」
「……」
菊田さんは顔をしかめる。
「莉佳様、確かにぼっちゃまはモテますし、過去にいろいろな女性とはお付き合いもあったようですが、二股はかけませんよ?」
「そうですか」
「なんでそんながっかりな感じで『そうですか』なんです?」

ええ、がっかりです。
――――二股かけていたら、逃げ出せるいい口実なんですがね。

「鳴海さんは、手に負えないから」
「手に負えない?」
「敵わないっていうか、あたし一人なら、人生もっと楽に生きられそうなんですけれどね」
「マタニティブルーですか? つわりそんなにひどいですか?」
「いえ、つわりはひどいですけれど、マタニティブルーではないと思いますよ」
メゾネットの階段を下りてキッチンへ向かう。
「じゃ、マリッジブルー? 莉佳様は繊細な方なんですね」

いえ、単純にビビりで蚤の心臓で内弁慶なだけなんですよ。

「大丈夫、ぼっちゃまは、ちゃんと莉佳様を守ってくださいますから」

だーかーらーそれが嫌なんですよ!!
あたしは眉間に皺を寄せて、キッチンに入り、菊田さんの指示を仰ぎながらお昼ご飯を作り始めたのだった。