awkward lover8




清瀬佳純は、それぞれの編集者に最終稿のページの修正を確認をしてもらって、モニタの前でチェック、修正作業を黙々行うこと―――――――それらの開始から28時間経過していた。

「おはようございまーす」
「オハヨウゴザイマス」

「一番のりで出勤したわ」と思っているバイトの総務の女子社員はギョッとする。
カタカタカタとキーボードと、パサパサと修正の赤字の最終校を捲っている佳純の後姿を視界に入れるなり、正社員でもないのに、こうして長時間に渡る仕事をしている彼女はホントに自分と同じ年なんだろうか? と不思議に思う。

(超がんばりやさんだよなー、 佳純ちゃん)

彼女が大好きなコーヒーを入れてやろうと、簡易キッチンのコーヒーメーカーをセットする。
彼女が佳純にコーヒーをいれてやると、佳純はヘッドフォンを外して、彼女を見上げる。

「あ、ありがとう……」
「頑張ってるねー、佳純ちゃん……寝てない?」
「うん、寝てない……」
「大丈夫? あたし、睡眠時間がないと生きていけないよ」
「それが正常」

ひょいとモニタを覗き込む。

「あ、伊崎選手だ」

彼女の無邪気な声に、ちょっと佳純はドキっとする。

「うん……」

記事は先だっての海外で行われた大会のレポだ。
試合中の写真も何点か載せている。

「カッコイイよね、あ、佳純ちゃんは会ったことあるんだっけ?」
「う、うん……」
「かっこよかった?」
「……うん……」
「えー、いいなー」

こうして見ると―――――本当に、プロのテニスプレイヤーなんだなと思う。
ここ数ヶ月……伊崎に会って、引越しを手伝ったり、花火大会に誘われたりで、伊崎の試合をコレまでみたことがなかった佳純は、雑誌のバックナンバーや、過去の試合のビデオ、DVDを時間があれば目を通してみた。
世間がいうところの、若手の中で注目されるテニスプレイヤー。
彼のテニスを観た大多数の人々が抱く感想と、同じ感想を抱いた。
若手の選手が現在たくさん世界へと足を伸ばし始めているが、その中でも伊崎選手は、やはり注目される逸材。

実際なら、佳純がプライベートで会うなんてことはなかったであろう、……遠い存在なのだと、これまでの資料に目を通して思ったものだ。

「どんな人?」
「え?」
「だから、伊崎選手、ほらあ、こう、カッコイイけど近寄りがたいじゃん」
「うん……私も……もっと厳しい人かなって思っていたけど……」
「厳しい……」
「硬いっていうか……」
「ああ、わかる! そうだよね、そう見えるよ(でも佳純ちゃんもそうだよ)」
「でも、いい人だよ」
「えー、そうなんだー、いいなあ」

無邪気にそう相槌を打つ彼女を見て、佳純は苦笑する。
こうして伊崎のことを思う女性たちはきっと多いのだ。
この『月刊プロアスリート』の特集記事に載せられている伊崎の写真見たさだけで、購読する女性ファンだっていると、聞いたことがある。
そういう彼女達の為にも頑張らないとなと、佳純は思う。
だけど……、彼のプライベートを知る女性はどう思うのだろう?
こんなに、たくさんのFANを持つ、有名人の彼女――――――。

「佳純、あんた、また泊り込んだわね」

背後から多田の声がする。
総務の女の子は
頑張ってと言い残して、自分のデスクに戻っていく。

「はい、でも11時の校了には間に合いますよ」
「じゃ、いいわ、それが終ったら帰宅なさい」
「はい」
「で、夕方またこっちに出勤できる?」

コレが終ったら、普通なら明日まで出勤はないはずだと思っていたのだ。
だから不思議そうな表情で多田を見上げる。

「取材に付き合って」
「取材」
「カメラマンの徳ちゃんが捕まらなかったら、あたしがカメラ撮ることになってるの、あんたビデオの方回していて」
「はい、何時にこっちに戻ればいいですか?」

手は休めずに、多田の話しを聞く。

「4時かな、プレスの場合、会場に早く入れるけれど、無理なら5時でもいいわ、試合は6時で会場はね――――」

佳純は自分の掌に赤ペンで時間と場所のメモをとる。
その様子をみて、近場のメモ用紙を取らずに、自分の掌をメモ代わりにしてしまうところが、佳純らしいといえば 佳純らしいのだが……。

「ちゃんと、そのメモ落としてきなさいよ」
「はい」

カタカタカタ、カチカチカチとモニタの前で指を動かしながら答える。

「伊崎君の試合をナマで見るんだから、お風呂ぐらいは入ってきてね」

佳純の指がピタッっと止まる。
振りかえると、多田は鼻歌を歌いながら、取材の準備を始めていた。




テニスの会場に入る前に、一般観客の列の傍を通りすぎると、女性客の会話を偶然耳にしてしまう。

「隆哉が、国内でやるなんて珍しくなーい?」
「ゆかこ、この間フランスまでおっかけて行ったてさ」
「げ、マジで? FAN心理はわかるけど、そこまでやる?」
「やるでしょ、ゆかこ、金持ちだし、あたしも金があったら絶対おっかけるね」
「うちらは国内で精一杯よー、だけどラッキーよねえ。席はどうだろ?」
「今月号のプロアスリートって隆哉の海外試合を特集するはずよ、先月号の予告にかいてあった」
「えー、楽しみー」

黄色い喚声をあげながら、彼女達は試合会場に足を運んでいく。
想像していたよりも女性客は多い。
それもこれも、伊崎が試合に出るからだという。
大会自体は小規模だ。
そのエキシビジョンとしてのゲームで出場される伊崎を、一目見ようというのだろう。
実際、彼の試合をナマで見ることは少ない。
海外のトーナメントの中継が主である。
そこで今回の試合は、国内の伊崎FANには嬉しいものだったようだ。
今回のチケットは発売開始30分でソールドアウト。
テニスの試合では本当にこのような状態は珍しいものなのだろう。



佳純は多田の後ろに付き従いながら、プレス用の入場口に入っていく。
「ごめんなさい、多田さん、少し遅れてしまったみたいで」
「大丈夫よ、それより眠れた?」
「2時間は」
「そう……」
若い子は別に徹夜も平気だという人もいるけれど、佳純はどちらかというと不眠症の部類に入るのかもしれないなと、多田は思う。
少ない睡眠時間でよくこの身体がもつものだと関心する。
プレス用のパスケースを受け取り、名刺をその中に入れて、プレスの控えにいく。

「多田さん」
「あら、吉井君」

人込みの中で一際高身長の人物が、多田に声をかける。
吉井は多田と佳純を観て、会釈をする。

「先日はどうも」
「あら。こちらこそ、誘って頂いて嬉しかったわ。で、どう? 伊崎君の調子は」
「コンディションは別に普通ですよ。いつもどおり」
「そう」
「会いますか?」
「お願いできるかしら?」

各スポーツ新聞社のプレスの横を通りぬけて、関係者意外立ち入り禁止の通路を入っていく。
そこからは選手控えだ。
プレスも試合前は、なかなかこちらには入れない。
吉井が伊崎のスタッフで今回この場にいるからこそ、可能なのだろうと、佳純は思う。
二人を連れて、吉井は控え室のドアをノックする。

「どうぞ」

マネージャーの声に、はドアを開けた。
「こんにちは、伊崎君」
多田の声にマネージャーと伊崎は顔をあげる。
「多田さん……清瀬さん……」
佳純は多田の横で軽く頭を下げる。
「どう、調子は」
「ご覧の通り、いつものように冷静ですよ」
伊崎ではなくマネージャーが答える。
多田は伊崎への質問をいくつか出すが、マネージャーがそつなく答えていく。

ベンチに座っていた伊崎はそれを横に、佳純に手招きをする。
佳純は伊崎の傍にいく。

「こんにちは」

佳純がそういうと、伊崎は僅かに笑ったようだ。
試合前のスポーツ選手はもう少しナーバスになっているかなと、佳純は思ったものだが、彼は本当に落ちついていた。

「仕事、校了した?」

静かな小さな低い声だった。
多田とマネ‐ジャーとの会話の方が、室内に響く。

「はい、今朝……」
「じゃあ、眠ってないんじゃないか?」
「2時間は眠りました」
「眼の下にクマができてる」

佳純はあわてて目の下に指をあて、室内の鏡を見ようとすると、伊崎は視線を和らげる。
その表情を見て、佳純は、照れたようにうつむく。
本当なら―――――なんでそういう意地悪を云うのと、声に出してみたいけれどやめた。

「清瀬さんが―――――眠たくならない試合をしよう」
「そんな……眠りませんよ」
「そうか……、この試合が終ったら少し時間があるんだ、この間、云っていた『小学生コース』考えておいた。一緒に行かないか?」
「はい」

佳純がすぐに答えたので、伊崎は本当に? と首を傾げて、彼女を見上げる。
試合前の選手に余計なプレッシャーを与えてはいけないなと、彼女の表情から読み取れて、伊崎は本当にリラックスした笑顔を見せた。

「そんなに簡単に答えていいのか? 彼氏が妬くぞ。社交辞令じゃないからな」
「それは伊崎選手でしょ?」
「?」
「彼女が妬きますよ」
「残念ながら、そういう彼女はいないが、彼女になって欲しい子は―――――」

伊崎が 佳純の目をまっすぐ見つめる。
ドアノックがして、大会スタッフが声をかける。
コートに移動してくれとのことだった。
伊崎は溜息をつく。

「いいところで、タイムアウトか」

伊崎はそう呟いて、ラケットを持って、シューズの紐を確認する。

「頑張ってね、伊崎君」

がっしっと、多田が佳純の首に腕を回してそういう。

「……頑張って下さい」

佳純は、もっと彼が、最高のテンションで試合へ臨む言葉をどうして、すぐに思いつかないのだろうと。気の利かない自分を歯がゆく思う。
そんな佳純の思いを察したように、伊崎は 佳純の頭をまるで子供を撫ぜるように、くしゃくしゃとかき混ぜて、控え室を出ていく。

「佳純、プレス席に移動するわよ」

多田は 佳純の腕を引っ張って、伊崎を追うように、控え室から出ていった。