HAPPY END は 二度 訪れる プロローグ




強風にあおられても、腕の中にある深紅のバラの花束は散ることはなかった。花弁は、しっかりと芯についてる。
墓前に捧げる仏花にしては、華やか過ぎる。
しかし、これはこれでいいと珠貴は思う。
自分が持つわけではない、彼に捧げるのだ。
彼はいつも珠貴のことをこのバラのように愛してくれた。
墓前を前にしても、もう涙を流すことはなかった。
一年半になる。ここに。彼が入って。
珠貴は彼をこう呼んだ。
尊敬と、愛と、信頼を込めて。
――――おじいさま。
と……。
墓前に花を捧げて、水仕事で荒れた手を合わせる。
一年と数カ月でこの手の荒れ具合。
ハンドクリームなんて塗ってもおいつかないまま、また水に手をつけるような仕事。
しかし、そのおかげで、この花を彼の墓前に捧げられる。
それだけでも救い。
――――人生にハッピーエンドな瞬間があるとしたら、私は15の時にそれを迎えた。そして一年半前にそれは終わった。
墓の下にあるのはかつての彼。
出会ったころから、骨のような人だった。
身体の水分をぬきだしたような、節の浮き出た長い指は、細巻きのシガーを挟んでいた。
それが彼のトレードマーク。
やけに粋に感じられて、彼を信用し敬愛するまでは、気障なジジイだと思ったぐらいだ。
――――そう、私に手を差し伸べたのは、若く素敵な王子様ではなかった。
若く素敵な御曹司とは違う。
金は持っているが、酸いも甘いも噛み分けて、体中にある皺の分だけ苦労も経験も積んで、あとは余生を送るばかりといった風情の老人だった。
しかし、その声と、その眼光は、見た目の年齢よりも若々しい活力に満ちていた。
 
 
「……迎えにきたよ。珠貴」
母親の葬儀に、現れた老人がそう云った。
母は若くして父と一緒になったものの、父親は事故で他界。
それから苦労して珠貴を育ててきたが、実は父親が保証人になってしまっていたらしく、サラ金から追い立てられてしまうことになっていた。
「なんだこのじじいは!」
若いチンピラ風の男が突如現れたその老人に対して強く出る。
サラ金の取り立て屋らしき男が、この通夜が終わったら、珠貴をいかがわしい場所でいかががわしいアルバイトをさせて母の借金の返済をさせようともくろんでいるのが、まだ15の珠貴にも想像がついた。
「これは先に死んだこの娘の父親が保証人になったもので、未成年の娘に支払いの義務はないし、まして、ここで死んだ母親が負担するものでもない。書類を見せてみろ……どーせ、相手が小娘ならだまくらかして、自分で適当に遊んでから風呂にでも沈める気だろうが」
「なんだじじい! てめえが借金払うってか!? ああぁ!?」
ガラの悪い男に対しても、ひるむこともなく、淡々とした声で続ける
「消費者金融法に外れる率での貸金業者なのは調べておるわ」
帽子の鍔から覗く鋭い眼光にチンピラ風の男も、後ずさる。
「……叩けば埃がでるサラ金が風情がっ!」
その一喝は、どこかの寺の老練な住職の声にも引けを取らない迫力で、チンピラはあとずさり、情けない声で情けない捨て台詞を残しその場を去って行った。
その瞬間は相手が例え誰だろうと礼を云わなければと思った。
母親の通夜におしかけてきて、珠貴の全身を眺めを裸にして犯してる様を妄想してるような厭らしい視線を無遠慮にぶつけてくる人間を追い払ってくれたのはありがたかった。
「怖かったろう。珠貴」
チンピラを一喝したその迫力はもうなく、仕立てのよさそうな、明らかにオーダーメードであろう高級スーツを身につけ、ステッキを片手の老紳士は穏やかにそう珠貴に話かける。
「……ようやく探し出せた。逢いたかった」
「……あの……あなたは……」
「瑞貴の、父親だ」
「……お母さんの?」
「お前の祖父になる」
「私の……おじいさん……?」
「そうだよ」
そう云って、老紳士は珠貴の母親の墓前に線香をあげ、手を合わせる。
珠貴の母親は、この老紳士、重倉祥造の隠し子だったとのだと、この後知った。
この老紳士。本妻との間に子供はなくて、珠貴の母である瑞貴以外はとうとうできなかったらしい。
そこで本妻がなくなり瑞貴の所在を探していたところ、本日このような場で対面することになってしまったというのだ。
その話をはいそうですかとすぐには理解できなかったが、老紳士の傍にいる弁護士がその調査書類等のコピーを珠貴に渡す。
「瑞貴に何もできなかった分、この老いぼれが生きている限り、お前には、私ができる限りのことをさせてもらおうと思う。どうだろう珠貴、私を祖父と呼んではくれまいか?」
さっきまで母の通夜だというのに、あのチンピラがいたせいで、母親を悼むこともできなかった珠貴だったが、この老紳士の出現で、緊張と涙腺の糸をほどいて、思いっきり声をあげて泣き出すことができたのだった。
 

――――おじいさま……。
父親も物心つく前になくし、いつも金銭的に苦しく。
それは小学校の頃からずっとからかわれて苛めらて、中学の修学旅行にだって積立する金がなくて、辞退して……。
おまけにそれでも一緒にやっていける母親まで亡くした珠貴に、手を差し伸べてくれた祖父。
彼は本当に珠貴を心配し、愛してくれた。
珠貴を高校大学と進学させてくれて、ゆくゆくは会社を継ぐために婿をと……。
振り返れば、この時が、祖父と過ごしたこの時間が、珠貴にとってはかけがえのないものだった。
両親が亡くなっても、なによりも大事にしてくれた祖父。
祖父と過ごした時間を、珠貴はもう少し、墓前で振り返っていたかった。
彼との想い出だけは、珠貴の人生において、優しく、暖かく、かけがえのないもの。
幸せの残照だった。