A miraculous day1




「じゃあ、すぐに帰るとは思うけど」
なかなか出発しようとしない年下の夫を見上げて、彼女は笑う。
「大丈夫よ」
「いや、大丈夫じゃないし、とにかく何かあったら、救急車は呼ぶように」
「いや、タクシー使うから」
彼よりも8歳年上の嫁が呆れたようにそう呟く。
否、今日からしばらくは7歳差だ。
とにかくも彼が心配するのは身重の彼女の身体のことである。
出産に救急車は呼んじゃいけないのと、彼女は年下の夫をたしなめる。
「お義母さんに連絡いれるよ?」
「……私の機嫌を損ねたら、どうなるかわからないわよ」
「無茶してほしくないっていってんの」
「無茶はしない」
「絶対?」
「絶対」
「安静にしてる?」
「してる。もうタイムアップ。行きなさい、リハに間に合わないでしょ」
年下の夫を彼女は追い立てる。
その口調はまるで彼女がマネージャーをしていた時と変わらない。
ビジネスライクなその口調。
でも、彼女は奏司のことを思っての発言だ。
今日のライブは特別なのだから。
彼は心配そうに愛おしそうに、彼女の張り出ている腹部をなでる。
「パパが戻るまでいい子にしてるんだよ」
その声を訊いて、胎動があるかと思ったがそれもないようだ。
デビューして三年。
いま売れに売れてメジャー路線を走るボーカリスト神野奏司。
12月24日。22歳の――――本日23歳の、誕生日の日だった。
クリスマスイブが彼の誕生日。
彼を売り出したプロデューサーの石渡由樹が、彼のデビュー前に、『毎年誕生日ライブやる。やっぱ年末はでかいイベントは組み込まないとね』なんて云ったのが、きっかけで、今年はまた都内でライブだ。
12月24日は神野ファンには風物詩となった誕生日ライブ。
年末とクリスマスイブというイベントも重なって、昨年のチケット販売は5分でソールドアウトになった。
そんな売れに売れてメジャーなミュージシャンとなった彼であるが、実は今年入籍した。
相手はデビュー当初から彼のマネージャーを請け負っていた高遠静。
ミュージシャンと担当マネージャー。
年齢差8歳。(静の誕生日がくるまでとりあえず現在は7歳差)
静の方が年も上だし、いろいろと葛藤もあったが、結局この年下の彼のペースに乗せられてしまい結局は結婚し現在に至る。
現在に第一子を身ごもって、本日で38週。
「ママを守ってね」
それは無理だろうと突っ込みを入れたい。
しかし、そうしたらきっと彼のことだ。
どんな言葉が返ってくるかわからない。
多分静をうろたえさせるだけの言葉を彼は云うだろう。
「奏司」
「はいはい」
「佐野さんが待ってる」
静の云う佐野さんとは、静の後に奏司の担当になったマネージャーである。
「……」
ソファに座ったままの彼女の額にキスを落とす。
「玄関までこなくていから」
奏司のいう玄関までこなくていいというのは、いつも仕事へ送り出す時に、静は奏司を玄関先までちゃんと見送るのだが、今の静を見て、それはしなくていいと、奏司はいうのだ。
「……」
「何かあったら連絡するんだよ」
「心配しすぎよ」
「今日は何かありそうなんだよなー。誕生日だし」
ソファの肘掛に座って、静を見下ろす。
「ライブ初日だから緊張してる?」
「かなー? でも、オレの勘って結構あたるんだよ」
「……うん。それはわかった。もし何かあったら美和子さんに連絡するから、それならいい?」
なかなか出発しない彼を納得させるような言葉を探して、そう伝えると奏司は頷く。
「OK絶対にそうして」
「メールも入れる」
「うん」
ショートコートを羽織ると、今度は静の唇に小さなキスをしてからリビングを出ていく。
静は手を振って送り出した。
さて、と、静は立ちあがる。
先日、大掃除も兼ねて、奏司はクリーンサービスを頼んでしまったので、洗濯をしようと洗濯機の方へ歩き出した。
「キミのパパは、心配性だね」
そう云いながら……。
 
「奏司、なかなか出てこなかったね」
「静が大人しくしてくれるかどうかわかんないからねー釘さしておかないと」
車に乗り込むと、佐野がそう話しかける。
「静さん、あれだよね、元がマネージャーだから、じっとしてるのやなんでしょ?」
「……そうだね、佐野さんも助かるでしょ。オレの奥さん元マネージャーで」
「23になったんだから、やきもちやかない」
「年カンケーないし。なんでオレの奥さんにメール送るのよって話でしょ」
「元マネージャーだし」
ぷうっと奏司は頬を膨らませる。
そんな表情を見たら、10代20代の女性ファンは金切り声をあげるだろうと佐野は思う。
でもこの彼はすでにもう嫁も子供もいるのだ。
ツアー先のちょっとした時間に一人でふらっと郊外のト○ザラスに行き、小一時間近くおもちゃを物色してた。
奏司は、「生まれてくるオレの子のために物色してたんだよ」と云ったが……若干、彼自身も欲しかったのではないかと佐野は思っている。
その話をプロデューサーの石渡に云ったら「なんでそんな楽しい場所へ一人で行くの!? そこは僕も誘わなきゃダメでしょ!!」そう叫んで、翌日、リハ前に、石渡はマネージャーの高原を連れてト○ザラスに赴いてやはりリハーサルはその日もギリギリに開始されたのだ。
しばらく楽屋はオモチャブームになったのは記憶に新しい。
しかし、今日はそんなギリギリではなく、余裕をもって会場入りだ。
首都高を走らせて、佐野は人知れず安堵の息をついた。
都内はすっかりクリスマスイブ。
「新婚なのになー嫁といちゃいちゃしたいなー。誰だろー誕生日ライブ毎年やろうなんてほざいたのはーとか思ってるー? 奏司」
本日のライブ会場の控え室に入ると、開口一番プロデューサー兼キーボードの石渡由樹が奏司にそう云った。
「思ってても口には出さない。23歳の大人になったオレ。年明けにはオヤジだし」
「ゆーよーになったなー」
「はーい、由樹さんに揉まれましたからー」
「静ちゃん元気なのかよ」
「元気に見せてるから心配なんですよっ。貧血あるとか云ってたしー」
「でも順調ではあるんだね」
由樹のマネージャーの高原に云われて奏司は小首をかしげる。
「……」
「何?」
「うん、出かけにちょっとね、不安とうか、心配とういか」
「何?」
「静は気のせいだって云うんだけどさ、オレ、すごーくこういう勘はいいと思うんだ。今日は、何かがありそうな気がする やっぱ電話する」
「……」
「……」
高原と由樹は顔を見合わせる。
嫁に電話かと思いきや、相手は違うらしい。電話先で訪ねた時の名前が違う。
奏司が携帯から連絡をつけた相手は叔母の美和子だった。
「美和子さん? オレ。うん。あのね、今日暇? 叔父さんとラブラブデートの予定? 違う? そーなら頼みやすいんだ。今日静の検診日なんだけど、ヘンに無茶しないか……そう付き添ってくれたら嬉しいな。うん。大丈夫迷惑じゃないよ、静は遠慮する性格なの、うん一人でなんでも平気とかいうから、うん、大丈夫こっちが強硬に出れば絶対に断れないから・うん仕事帰りはなるべくはやく帰る。うんじゃあね」
携帯を切って、奏司はこれで一安心と呟く。
「じゃ。リハ、始めましょ」
そう云って奏司はショートコートを脱いだ。

数時間後、奏司は自分の直感が正しかったのを知ることになるのだった。