極上マリッジ 9






「送らせてくれ」
あたしはその言葉を無視して歩き出そうとするが、腕を掴まれた。
あたしがあんまり睨みつけるから、残念そうに溜息をつく。
「何もしないと約束するなら」
あたしがそう云うと鳴海氏は、にやりと笑う。
その笑みはどっかエロイくせに冷やかで計算高そうだ。
こいつに勝てそうにない、いや、勝てそうな人間がいたらお目にかかりたいものだ。
そりゃーアンタはキスだけじゃないよ、あっちも上手いよ、金も持ってイケメンで、身体で女を喜ばせることだってできるなら、そりゃーもーたいていの女はノックアウトでしょうよ。
でも、あたしはあんたの使い捨てのオモチャになる気はさらさらない。
さっきは不意打ちで流されそうになったけれどね。むかつくことにさ。
「でもここで言い争いをする気はないだろ?」
あたしが反抗してみても、多分こいつも譲らない。
確かに言い争うところをジロジロ見られるもはみっともない。しかたがないから車に乗り込むことにした。
ベンツCLSクラスの助手席に乗り込んでからも、あたしは一言も喋らなかった。
エレベーターの時のキスの時とは違うけれど、息が、つまりそうだった。
沈黙を破ったのは、鳴海氏だった。
「俺だけじゃなくて、莉佳も同じ気持ちでいてくれてたと思っていた」
首都高に乗りあげて、6号線へと車を走らせながら、鳴海氏は呟く。
東京都の東部の景色を見つめていたあたしは、ハンドルを握る鳴海氏を見た。
「あの夜も、さっきのキスも、莉佳は嫌がってなかった」
「あの夜は酒のせい」
「さっきのキスは?」
こいつがハンドルを握ってなかったら殴ってる。
仕方ないから、睨みつけるだけでまた視線を景色に戻した。
悔しいことにこいつに振り回されてるような気がするのは、何故だろう?
緊張するし居心地が悪すぎる。
この男の言葉は真実なのかわからない。
嘘だと決めつけて、拒絶する方があたしにとっては絶対にいいはず。
あの夜もさっきのキスもなければ……もっと徹底的に無視できるのに。
そんなことをツラツラと考えていた。
車は高速を降りて、一般道に入り、よく見知ってる町並みを走り、店の前に止まった。




店の扉から、優莉がでてきた。そしてそれを追うように姉も出てくる。
「りかちゃんおかえり〜」
「ただいま優莉」
「お姉さん?」
「そう」
あたしは車から出ると、鳴海氏もサイドブレーキを入れて、車から出た。
「おかえり、莉佳、送っていただいたの?」
ここで無視して家に逃げ帰りたい気持ちは山々だけど、それをやったら30女の態度というより中学生だ。
仕方なく、礼儀にのっとって、姉を紹介する。
「姉の莉紗」
「初めまして、鳴海慧悟です」
「初めまして、小野崎莉紗です。この子は娘の優莉」
「こんにちはー」
優莉は元気よく挨拶する。
優莉、あんまり知らないおじさんに愛矯振りまいちゃダメよ。誘拐されちゃうわよ。
「こんにちは」
鳴海氏は優莉に挨拶をする。
「コーヒーでもどうですか?」
姉よ、あんたの見合い相手にあたしが愛想よく挨拶したら、ふざけんなって怒った癖に、お前はヤツを招きいれる気かい?
「ありがとうございます」
おまけにこいつ断らないしっ。
「おくるま、おーきーねーぴかぴかしてるー」
優莉の言葉に、鳴海氏は云う。
「今度、ドライブに行こうか?」
「うん!」
優莉―――!! そこで即答するんじゃないの! マジで誘拐されるわよ!?
姉! 娘の危機管理の教育はどうなってるのさ?
鳴海氏は道路を挟んだところにあるコインパーキングに車を止めて、店内に入ってくる。
姉にカウンター席を勧められて、スツールに腰をかけた。
優莉もよいしょと、鳴海氏の隣に座る。幼女をも虜にするイケメンかよ。
「どこにいく?」
「おさかな、みにいきたいの」
「水族館か」
「あおいおみずのなかで、きらきらしてるのー」
「うん、おじさんも好きだな、お魚」
「ほんと? ゆうりもだいすきー」
「鳴海さん、コーヒーは?」
「ブレンドで」
あたしもカウンターに入ろうとしたら姉が、いいからそこに座ってろと小声で呟く。
しかたなく優莉の隣に座る。
「いつ行こうか、今度の土曜日に行く?」
「ほんと? いい?」
優莉は、カウンターにいる自分の母親と隣のスツールに座ってるあたしを交互に見つめる。
ワクワクしている優莉の気持ちを挫くことができるわけがない。
母親が喫茶店経営なんて、休みはないようなもんだし、そのせいでここ数年、家族でおでかけなんて優莉はしたことがない。
つまり物心ついてからの優莉は、楽しいおでかけの記憶がないのだ。
このぐらいの子にとっちゃ、嬉しいイベントの一つなのに。
去年の幼稚園の遠足で優莉がどんだけはしゃいだかは記憶に新しい。
「わたしは店を閉められないから、莉佳が付き添ってくれればね」
でも、あたしだって、ここで仕事があるだろ。
「店は純平君もいるし、心配しなくてもいいよ」
そうはいうものの土日は忙しいよ?
ここであたしが店番するから姉と優莉とで行ってきなと云いたい。
が、一日姉が不在でこの店がやっていけるのかと思えば、ちょっと不安……。姉の淹れるコーヒーを目当てにやってくる常連だっているんだし……。
優莉がやぱっりダメなのかな? ってしょんぼりした顔をしてる。
くそー。しょうがない。
「チャイルドシートなんてないでしょ」
「あるよ」
「……」
独身男がなんでそんなもん持ってんのよ。
「兄の子供を乗せる時があるからね」
「……」
怖いっ! 今、あたし心の中、読まれた? 
「じゃ、土曜日行こうか」
優莉にそう云うと、優莉は、ぱああっと顔を輝かせる。
「ほんとっ!? いいの!?」
優莉のその笑顔には白旗をあげるしかないじゃんよ。
「うわあい! おでかけだあぁ!!」
ピョンとスツールから飛び降りて、万歳をしてる。くそう、可愛い。

カランと店のドアが開く。
「いらっしゃい」
「優莉ちゃんママ、きちゃったー」
ドアから顔をのぞかせるのは、優莉の幼稚園のママ友達らしい。
「どうぞー、役員決まった?」
「決まったわよう」
「ここで打ち合わせするならコーヒーは10%オフにしとくよ?」
「ほんと? 美穂ママにも云っておく」
「雄太くんママ―!」
「あら優莉ちゃん」
「雄太君は?」
「パパと野球に行っちゃった」
「そっか。あのね、あのね、こんどのどようびね、ゆうりね、おさかなみにいくのっ」
早速報告かい。そんなに嬉しいのかい。姉はカウンターから出て、メニューをママ友のテーブルにおく。ママ友はブレンドとチーズケーキを頼む。
「お店、お休みするの?」
ママ友が姉に尋ねる。すると優莉が姉の返事を遮るように嬉しそうにのたまった。

「ううん、ママはね、おみせにいるよ。ゆうりはね、りかちゃんとね、りかちゃんのおむこさんといっしょにいくの」



ブフォ―――ッ!



あまりにも衝撃的な台詞にコーヒーを噴き出しそうになり……ちょっぴり、いやかなり噴き出した。そしてその被害を最小限にするため堪えすぎて、コーヒーが思いっ切り器官に入った。
ゴホゴホとカウンターに突っ伏して、思いっ切りむせる。
姉が呆れたようにダスターをカウンターに出す。
あたしはそれをひったくって、むせかえりながら、カウンターを拭く。
むせてるあたしの背を大きな手で擦られた。
「莉佳?」
低くてどこか甘い声で心配そうに名前を呼ばれる。だからそれ、やめろ、手を離せ!
「りかちゃん! りかちゃん!! へいき?」
さっきとは反対側のスツールに優莉はよじ登ってきて、あたしの顔を覗きこむ。
キミの無邪気な発言のせいなんだよ、優莉。とは云えない。

イノセントとは時として恐ろしい武器になる……。