極上マリッジ 8






あたしは廊下を歩きながら、前職場のオーナーの携帯にメールを送る。勝手に人の情報を教えるなと釘をさしたら、即座に送信先からコールバックがあった。
『小野崎ちゃん、何怒ってんだ』
「怒るわ、なんで人の個人情報をホイホイ教えるの!?」
『いやーあの日お前ら意気投合してたから、なんか問題あった?』
大ありだ。頬が引きつる。あの日はあの日。
アルコール入ったノリとシラフの時と一緒にするなよ。
「あの男、こともあろうに、あたしとのお見合いをセッティングしやがったのよ!?」
『小野崎ちゃんはなんだかんだいって、ロマンチストだからなーとか云っちゃったら、あいつそんなことしたんだ』
「何? ばっかじゃないの? そんなこと云ったの?」
『ダメだった? でもうっかりときめいただろー?』
正直云うと、ちょっとはときめいちゃったよ。
けど、冷静に考えてごらんなさいよ、馬鹿にされてるだけだってば。
オーナー……今、あんたがこの場にいないことを感謝しなさいよ? 
目の前にいたらその首ギューと締め上げてやる。
エレベーターのボタンを押そうとしたら、でかい手が目の前のボタンに触れた。
そのスーツの袖口は、さっきまで一緒にいた男が着ていた生地だ……。
足音が絨毯にかき消されたとしても、気配なんか感じなかった。
振り向きたくない。振り向くなあたし。

「送るよ、莉佳」

振り返らなかったら、携帯電話を当てていないもう一つの耳の方へ、ダイレクトに彼の声が響く。
一気に背筋から脳へゾクゾクっとした感覚が走り抜けた。
な、なんてことをするのよ。
『どうしたー? 小野崎ちゃーん?』
携帯電話の声が聞こえたみたいで、鳴海氏はクスっと笑う。
「渡部?」
鳴海氏はそういってあたしの携帯電話を握る右手を掴んで、自分の耳に押し当てて、左手であたしを抱き寄せた。
後ろから抱き寄せられるみたいな態勢になってるし!?
な、な、なんてことを。いや、この男とはそれ以上のことはとっくにやっちゃってるけど、でも……。
『おお、鳴海? なんだー小野崎ちゃん怒ってるぞ』
「うん、せっかくドラマチックな再会を演出したのにお気に召さなかったみたいでね、また、かけるよ」
そう云って彼は勝手にあたしの携帯の通話を切った。
「か、勝手に電話切るなんて……」
「文句は云っただろ?」
エレベーターの扉が開いてあたしは慌てて鳴海氏の腕から逃げるように、エレベーターに乗り込む。
急いで一階のボタンをおして鳴海氏をドアの扉で閉め出したかったが、こいつは乗り込んできた。
お前がそう云う態度ならまたエレ―ベーターを出ればいい、あたしはドアの外に出ようとしたが、それはかなわなかった。腕を捕まえられて、身体の向き直されて、
正面きって抱きすくめられるみたいな態勢に……。
この態勢は……ヤバイ……でしょ。携帯を持った手ごと、鳴海氏の手の平に包まれて……この手が……。
「送らなくてもいいって云ってるでしょ」
「あの日みたいに?」
手が振りほどけなくて……。
「一人で莉佳を帰すとでも?」

「呼び捨てにするなっ」って云いたかったのに、声がでなかった。

あたしの手を捕まえていないもう一つの手が、ウエストに回る。
鳴海氏の身体に、抑え込まれる。そんな態勢……目が……真剣味を帯びていて、あの日の夜を思い出さずにはいられない。あの日みたいに……彼の唇があたしの唇に重なる。
下唇を食まれて、舌先でなぞられてる。
まるで苛立つあたしを宥めるみたいに。
拒否するべきなのに、それができない。また逃げようとするけれど、がっちり抱きすくめられた。

「ン……」

舌先が、唇の内側に入り込んで、歯に当たる。
どうしよう、この人……あっちも上手かったけど、キスも悪くない……てか、いいかも……。
理性と本能のせめぎ合い……唇をもてあそぶようなキスの癖に、クラクラする。
そんなにキスだってしたこともないし。
ファーストキスは、もっとこう歯と歯のぶつかり合いで、唇が重なったと思ったら、相手の舌が強引に侵入してきて、その感触の気持ち悪さにキスってあんまりいいもんじゃないって思ったし。今まで思ってた。
なのに、この男のキスは違う。
唇を食むしぐさを繰り返して、強引に深めてこない。
そうされるとまた逆に、じゃあ、もっと触れ合ったらどうなるんだろうなんて、誘惑にかられる。
力の抜けた歯の隙間から少しだけ彼の舌触れてみると、また、舌先だけで撫でられて……。

蕩けた……。

意識が。
反抗することもできない。
それどころか、拒否しようと相手の胸にあててた片方の手のひらが、彼の胸から肩へ……首筋へ……。
理性が駆逐された瞬間だったと思う。

「……んっ……」

重なる唇の感触をもっと求めたくて、自ら彼がしたように、彼の唇を唇で挟むと、彼はあたしを抱き寄せた手を背中から頬に、耳に這わせて、両手で包まれた。
ピンポンと軽い音と振動がして、全身がビクっとした。
ドアが開く。
ドアが開くということは、誰かがこのエレベーターを使うってことで……。



いやあああああぁぁ。



やだやだっ! 見知らぬ誰かにこんな状態見られたら!
お前、いい加減にしやがれ!?
さすがに意識を取り戻して、逃がさないように離れようとしたあたしを、また抱き寄せた。
いや、もう意識は戻ったよ、正気。正気ですからっ!!
うっかりこいつの誘惑にかられたが、こいつとは恋人同士でもなんでもないだろ! 例え彼氏がいたとしてもよ? 人前でベロチューかまして平気なほど恥じらいがないわけじゃないのよ!
若いバカップルならまだしもいー年した男と女が公衆の面前するか普通?
本来のあたしの性格からしたら、例え結婚式の祭壇の前でだってキスしてるところは見せたくない派ですよ!
なのに、こいつはやめようとしない。コノヤロウ!

「や……はなし……んン………」

唇を離して抗議しようとした言葉を、泣きだした赤ん坊をなだめるように「シー」って、云って、また唇で塞がれた。
エレベーターに乗り込んで、こいつに身体の向きを変えられたから、扉を背にした状態で、ドア向こうに誰かいるかなんてわからないけれど……。
誰もいないの?
ドア向こうに人の気配は……あるようなないような。
ドアを背にしたままだからわからない。
鳴海氏がボタンを押すと、ドアはスーっと閉まった。
誰も……いなかったの……?
目を開いて、鳴海氏の瞳を見る。ドア向こうを見ていた視線はすごく冷たかったのに、あたしが目を開いて、彼を見つめているのに気がついたら、ほんの少し微笑む。

「誰もいなかったよ。莉佳」

そう云って、あたしの額にキスを落とす。
……嘘くせえ!
いただろ!? 絶対いたよな!? なんじゃ、その悪戯をごまかす子供みたいな表情は!? イケメンだからって、許されると思うなよ!?