awkward lover3




入稿終了した数日、雑誌発売直後は、定時通りの帰宅ができる。
親元を離れて1人暮しをしている佳純は、東京23区内とはいえ、私鉄一駅で隣県に入るそんな場所にすんでいる。
駅から自宅まで徒歩十分住。
このバイト先は電車を使用すれば乗り換えも含めて45分はかかる。
が、本日土曜日。
半日出勤の清瀬佳純は、時計を見る。
本日は何事もなく、あと1時間で定時に帰宅できるであろうと彼女は思っていた。
今日は早めにひけるから、100円ショップで新しいコスメが入荷してないかチェックしようと思っていた。
多田は「身なりに〜云々」と云うけれど、 佳純も普通にコスメには興味ある。
ただ現在1人暮しであること―――――当然仕送りなんて無しであることと、愛用のベスパ維持費のために常に金欠なのだ。
そして仕事上、時間もない。
この間も多田が取材先でボイスレコーダーを忘れたので届けに行ったあの日も――――――別冊の入稿に付き合わされて、会社で仮眠2時間な状態だった。
あの場合、身なり云々は無理な話しだ。
それにしても多田はいつ、化粧品を買い、ブランドスーツを購入しているのか? 
そこが佳純は不思議に思うところであったが、なんにせよ、今日はこれから、プライベートな時間が待っている。
そうだ、ついでに「服とかもみたいなー、CDの新譜もチェックしよう」等と少しばかりわくわく気分だった。
が、それは1本の電話で彼女の予定が変更されてしまった。



「はい月刊プロアスリートです、はい。え……献本が届いていません?」
「ええ、事務所を引っ越したんですけど、行き違いになったのかもしれないんです」
「失礼ですがお名前は」
「伊崎隆哉の事務所の者です」



その個人名を訊いて、佳純は固まる。
ホテルのティーラウンジで初めて会った。
本物のプロテニスプレイヤー。
そして、先日の入稿作業の早朝に、ロードワークの途中だから寄ってみたと、コーヒーをさし入れてくれた彼……。
この声からして本人ではないだろう。当然、事務所の誰かだろうと思った。


「失礼しました、では、手配致しますので、新しい御住所とお電話番号をお知らせ下さい、控えさせていただきます。事務所名の変更はございませんか? はい、はい……」

佳純はメモをとって、相手の受話器が切れる音を確認してから、自分も受話器を置いた。
そしてデスクを両手で押しのけるように立ちあがる。

「多田さんは?」
「取材。本日、都内某所で試合があるから、そのまま直帰予定」

佳純は自分の背後にあるホワイトボードに視線を移して、スケジュールの確認を取る。
PCで、献本先リストの住所録のデータベースを引っ張り出す。
しかし、コレは先月と同じ場所で、今控えた住所とは異なるものだった。

―――――多田さん……変更があったら変えましょうよ。

多田が忙しいのはわかるが、こういう細かいところでのミスはよくあるのだ。
佳純はたった今控えた住所を新たにデータベースに修正を入れる。
と同時に、総務の子が郵便物を数冊抱えてい各社員当ての郵便物を振り分ける。
多田の郵便物にその所在不明で戻ってきた献本があった。
佳純はそれを受け取る。

「加賀見さん、献本届いてないそうです」

デスクの加賀見は 佳純の声に顔を上げる。

「伊崎選手の事務所、引っ越したみたいで、行き違いがあったみたいですが」
「あちゃー……」

加賀見は時計を見て、あと1時間で終業だと思う。
そして佳純と……多田のミスによる返却された献本を見る。

「じゃ、佳純ちゃん、それ、届けてきてくれる? 今日はそのまま直帰していいから」
「……はい……」
「バイク?」
「いえ、今日は……土曜日ですし……電車で」
「そうか……じゃあ、頼むよ」
「はい……お先に失礼します」
「おう、お疲れ」

佳純は都内の地図を見て、届け先の住所の確認をすると、編集部のドアの外に出ていった。
その後ろ姿を見て、加賀見はタバコに火をつける。
このミスは多田の策略?
それとも、ヤツの天然なボケ?
どっちなんだろうなと、加賀見は思った。




地下鉄を乗り継いで、メモに控えた住所に辿りつく。
都心の中古マンションだった。
事務所というから雑居ビル系かとも思っていたが、個人の事務所だし、他でもこういうマンションをリフォームして、事務所にしてるところもあるらしい。
オートロックのボタンの部屋番号を押すと、インターフォンから声がした。

「月刊プロアスリートの者です。献本をお届けにあがりました」
「どうぞ」

ドアが解錠されて、佳純はマンション内部に入った。
エレベーターを利用して、最上階から1階下の角部屋。
そのドアチャイムを押すと、ドアから顔を覗かせたのは、伊崎だった。
一瞬、佳純の呼吸は止まる。
まさか事務所といえど、本人がいるとは思わなかったのだ。

「あ……あの、献本、お届けにあがりました」
「ありがとう、わざわざ、土曜日にすまない」
「いえ、じゃあ」
「ちょっと散らかっているが、今コーヒーを煎れたばかりなんだ……飲んでいかないか?」

確かにドアの奥からコーヒーの香りがする。
先日もコンビニとはいえコーヒーを奢ってもらったのに、ここでまたお邪魔するのはいくらなんでもずうずうしいと佳純は思う。

「えー、誰、誰?」

ドカっと伊崎の背中を抑えつけるように、ドアから顔をだしたのは、レッドブラウンに髪を染めて撥ねさせた、目の大きな青年だった。

「細井……」

背中を抑えつけられた伊崎は、背後にいる青年を窘めるように、彼に視線を移す。
細井は目ざとく、佳純の持つ紙袋のロゴを見ると、彼女が月刊プロアスリートの関係者だとわかったらしい。

「初めまして――――、細井裕でっす。月刊プロアスリートの人でショ? 多田さんは元気い?」

元気良くまくしたてる彼に、佳純は少したじろぐ。

「多田さんの後輩ならいーじゃーん、手伝ってもらえばー?」
「相手の都合もあるんだ。失礼だぞ」
「……手伝うって……」

佳純が呟くと、細井は良くぞ訊いてくれましたと捲し立てる。

「引越しの後片付け。引っ越して3日経過してんのに、コイツのマネージャーが風邪でダウンしてさー、引越しの手筈もゴタゴタして、お任せパックにすりゃーいいものの、マネも本人も無駄金はいいとかいって、ケチってんの。金の分、時間とられてどーすんだっちゅーの、オレはもう時間ないし帰るからー、あ、中にもう1人いるけど、気にしないでいいよん」
「細井」

もう1度伊崎に窘められるが、細井は地団駄を踏む。

「だって、オレもう、時間がないんだもん。あ、えーと後日、お礼するし、ね? ね? いいよね? ホントごめん」

パンと両手を合わせて、細井は 佳純の顔を覗き込む。

「はあ」
「よっしゃ! じゃ、入って入って!!」

細井はそそくさと自分の靴をはいてドアの中に 佳純を押し入れて、自分はさっさとドアの外に出る。

「あ、名前は?」

細井が尋ねる。
佳純はバッグから名刺を取り出して、細井に渡す。

「清瀬佳純ちゃんね、よろしくね、えーと、マジ後日お礼するから! ホント悪い伊崎」

片手を顔の正面に立てて、ウィンクする。
伊崎は溜息をつき、小さく頷く。
細井は伊崎の表情を確認すると、勢い良くエレベータホールの方へと走り出した。
小さな台風のような慌しさが過ぎて、佳純はどうすればいいのか所在なげな様子になった。

「俺にも名刺をくれないか?」
「あ、すみません」

本来なら、伊崎に一番始めに渡しておくべきモノだ。
佳純は慌てて、伊崎に自分の名刺を渡す。
伊崎は名刺を受け取る。

「そうか……すまない……勘違いしていた」
「?」
「多田さんが、『佳純』というから、そちらが苗字だと思っていた」
「はあ……」
「随分、多田さんに可愛がられてるんだ」

その言葉にどう答えていいか判らず、佳純は曖昧な笑顔を浮かべる。
が、伊崎の今の言葉に、思い当たることがあった。
伊崎が勘違いしていた。『佳純』を苗字だと思っていたといこと――――。

初めてあった時、伊崎が最後に「佳純さんがバイクじゃない時にでも」という言葉。

あの時、僅かな違和感を感じていたのだ。
見るからに、この堅い感じのする人物が、初対面の女性のファーストネームを呼びつけるものかと。
多田の会話から誤解されてもしかたないなと、佳純は納得する。


「どうぞ、あがって」
「はい……お邪魔します」

廊下を抜けると、広い事務所になっていた。
少なめのデスクと、あとは壁に一面のファイルラック。
手前のキッチンから、煎れたてのコーヒーの香りがする。

「裕のヤツ、逃げた?」
「ああ」

デスクに積み上げられているPCのうち、きちんと組上げられた方に、1人、青年が使用している。
椅子に座っているだけでも、かなり長身な人物だと 佳純は思う。
椅子をクルッと回して、彼は 佳純と伊崎の方に向き直る。
伊崎はキッチンの方に入ってしまい、椅子に座る彼と、佳純は目が合う。

「じゃあ、俺も一息いれようかな? えーと……初めまして? キミは?」

佳純はまたバッグから名刺を取り出して、頭を1度下げて、彼に渡す。
彼は名刺を受け取ると、また佳純を見る。

「多田さんの後輩ね……、彼女、元気?」
「はい……」

そう、返事をしながら、何故、先ほどの、人懐こそうな彼や、この目の前にいる彼が、多田の名前を知っているのだろうと佳純は思う。
年だって離れている。
伊崎はプロだし、取材関係で何度か会うだろうが、彼等はどう見ても伊崎のプライベートな友人達のようだ。
伊崎がトレイにマグ2つ――――これは彼と、この目の前にいる彼の友人の分。
コーヒーカップの方は 佳純用なのだろう。
中には煎れたてのコーヒーが湯気と香りを放っている。

「中学の頃から、取材で何度か会ってるんだよ。多田さんとは」

マグを受け取りながら、彼はそういう。

「俺達はね、伊崎の学生時代からの友人。同じテニス部に所属。で、一応、全国大会に出てたんでね。多田さんや、加賀見さんとも知り合いなんだ」
「そうなんですか……」
「あ、悪い、自己紹介がまだだった。俺は吉井。よろしくね、清瀬さん」

黒いがっしりしたフレームの眼鏡が印象的な彼は、そう自己紹介した。
彼の声を訊いて、献本の連絡をくれたのが彼だったのだと、この時になって 佳純は気がついた。