HAPPY END は 二度 訪れる 18




朝、目が覚めたときに、彼女の姿はなかった。
昨夜、会社を二人で出て、彼女を連れてこのホテルに戻ったはずだったのに。
ベッドのシーツに、一緒に過ごした痕跡が残ってなければ、昨夜の出来事は夢だと思うところだった。
彼女がこの部屋を出たことに気がつかなかったのは多分、何年振りかに、ぐっすりとした睡眠がとれたというのもある。
高級ホテルのスイートのキングサイズのベッドで睡眠不足に陥るのは自分ぐらいだと思っていた……彼女も眠れなかったのだろうか……。
ああいうシチュエーションでベッドの相手を置き去りにするのは男の方ばかりだと思っていたのに……男の自分が置き去りにされたのも、ヘンなプライドが刺激される。
そういう意味でも……。やっぱり彼女は……。
――――生意気だ。
帰りますのメモもない。でも、憎めない。
仕事でも、恋愛でも。こんなに一つのことを堂々巡りの思案をしたことはない。
これほど心にかかるのは、彼女だからだ。
ずっと前から、多分、彼女と初めて逢った瞬間から、自分は恋に落ちた。
妻を亡くしてから、もう二度と誰も愛さないだろうと思っていたのに。
初めて逢った時、そして一緒に過ごしたこれまでの日々を、彼女の存在を自分から離してこの先は生きていけない……。
だから云った。
――――Will you marry me?
この言葉に、彼女は明確な答えを出さなかった……。

 
「この調子でいけば、来月の決算は黒字ですね」
「……」
沙穂子の言葉にアルフォンスは心ここにあらずだった。
デスクに肩肘をついて、書類に視線を落とすその仕草も、まるで洋画のワンシーンのようで、熱愛中の彼氏がいても、自分の会社の新しいオーナーは目の保養だなと沙穂子は思う。
「量産のために海外に工場を持つ案はコレでいいよ近日中にも現場の下見に行こうと思う」
「はい。重倉さんはご一緒に?」
「……いや……彼女はここに残って、仕事をやってもらう」
今では、内外でも「シゲクラ」の顔になっている珠貴が新工場の視察とはいえ、日本を離れるのは社内が不安がるだろう。
「そのあと、僕は、本国に一時帰国するよ」
「……じゃあ……この会社は……」
「珠貴に任せても問題ないぐらいまで再建できてると思う」
沙穂子の表情に不満がでていた。
「僕がいない方が、社員達にはいいんじゃないのかな?」
「そんなっ……」
冗談だと、アルフォンスが呟く。
「ミズ江波」
「はい?」
「彼氏から結婚申し込まれて、どう答えた?」
「なっ」
不意に関係ない質問をされて沙穂子は慌てる。
「あたし、まだ結婚は申し込まれてません! やだもー! 珠貴ちゃ……いえ、重倉さんが云ったんですか?」
「……」
「え? 違うんですか? 昨日オーナーの所へその話をしに行くからって、部屋を出ていったんですが、その後お二人で会社を出られたのでその話かと……」
「なんのこと?」
「だから……女性社員がもっと働きやすいようにって、産休や育児休暇がとりやすいようにしたいって、重倉さんが云ってたんです。あたしが結婚しても暫くはこの会社にいてほしいって……」
「いや、その話は初耳」
けれど、そんなことまで考え始めていたのかと、珠貴の成長ぶりが眩しいぐらいだった。
「じゃ……なんの話をされてたんですか?」
アルフォンスはぐっと詰まる。
思いっ切りココでいちゃついて、気分が盛り上がってお持ち帰りしてしまったとはさすがに云えない。
表情に出てないつもりだったのだが、沙穂子はニヤニヤ〜と笑みを見せる。
「オーナー〜昨日何をしたんですか〜?」
「……」
「相談に乗りますよ〜」
そんなおちゃらけた口調から、ふと、声のトーンを落とす。
「ただ、珠貴ちゃんを傷つけるのは、やめてくださいね」
「そんなつもりはない」
珠貴に逢わなければ、ずっとあのまま一人で生きていくことを、当然のように受け入れただろう。
珠貴に逢って、彼女を知るたびに惹かれていって……リナを想って独りで生きていこうとしていた自分の気持ちが翻ってしまった。
感情を押し隠そうとしてるくせに、ところどころ表情に出す。
一生懸命で努力家で真面目で……褒めると照れてしまうけれど、嬉しそうにはにかむ笑顔も……。
自分の傍に置いておきたい。
だから、プロポーズしたのに……スル―された……。
――――ああうことのあとだから、タイミングが悪かったのかな。責任感からとか同情からとか、日本人の男よりは見た目もアレだし、雰囲気での言葉とか思われたんだろうか……。
誰よりも彼女を護りたいのに……。
「あと」
「うん?」
「最近このオフィスに無言電話がかかってくるんです」
「しつこい?」
「いいえ」
二、三日に一度の割合だという。
「それ、注意してくれ」
「注意?」
「吉野だから」
アルフォンスの口にした言葉に、沙穂子の瞳に怒りの炎が宿る。
この会社を手に入れるため珠貴と婚約までしておいて先代がなくなったら掌を返すように本性を出して珠貴との婚約を解消して珠貴をこの会社から追い出して、あげくこの会社を倒産寸前にした男の名前だ。
きっとここの社員が彼の名を訊けば怒りを顕わにするだろう。
「オーナー電話を受けてらしたんですか!?」
「時々ね」
「あの男、何を今更……」
「ミズ江波、僕が留守の間、珠貴を守ってくれ」
「もちろんですよ!」
グッと握り拳を作り鼻息を荒くする。
「大丈夫です! オーナーがいなくても守って見せますとも」
「頼もしくて結構だ。安心して留守にできる」
「けど、珠貴ちゃ……重倉さんは、多分、あの男にも怯まないでしょうけどねっ!」
「そう思うのかい?」
「ええっ。彼女は強いもの。先代が愛したのは、珠貴ちゃんの見えない力強さだと思うの。引き取った時に、先代は自慢気だったわ。自分の母親の通夜の晩に、野蛮な取り立て屋を前に怯まなかったって」
その過去の話にアルフォンスは目を見開く。
「ご存じなかったんですか?」
祖父の庇護がなくなった瞬間……何もかも奪われていくのを体験した珠貴は、他の誰かの庇護ではなくて、自分に力がなければ、戦えないと理解したのだ。
母親がなくなった時は、彼女の祖父がその手を差し伸べた。
でも、この先そんなことはありえないのだ。
本来、彼女を護るべきはずの婚約者が、彼女をボロクズのように捨てたのだから。
アルフォンスだけではなく、……彼女もまた、独りで生きていこうとしていたんだろう。
それに……一番最初にシゲクラに戻る条件に、彼女は云ったじゃないか。
――――わたしをおじいさまのようにして。
――――ビジネスの世界で、わたしを、独り立ちさせてほしいの。
――――会社をひっぱって、外部からの圧力からにも屈することなく、理想を抱いて、社員を守れる…。
「だからあたし、彼女が好きなんです」
沙穂子がきっぱりと云い気る。
結婚しても、子供ができても、働きやすい会社にしたいのは、沙穂子の為だけではなく……。
珠貴自身が結婚しても、子供ができても働きたいと思ってるに違いない。
「……オーナーも、彼女をお好きでしょ?」
「……」
もちろん、誰よりも愛してると、その言葉をアルフォンスはのみ込んだ。