Fruit of 3years13




「いいわねえ、ここ」
新築の高層マンションを手に入れた時、紅美子はそう漏らした。
「ちょっとあたしも、やっぱここ住もう。こうまっさらな部屋見ちゃうと、インテリアいろいろ弄りたくなる」
「出発するには、東京駅に近いし、成田空港までのアクセスはこっちの方がいいかも入れませんね」
静がそういうと、紅美子は頷いた。
「車の方がよければ、私が送ります」
すでに免許を取得していた静に、彼女は手を叩いて喜んだ。
「そっちがいいわね、是非そうしてちょうだい」
そう言い放つ彼女を静は眩しそうに見つめた。
 
孤独であることは別にかまわない、この人のように自分の世界と自由が手に入るならば。
 
そう思っていたけれど、その自由を駆使して手に入れようとした夢に、静は敗れた。
―――――――君の声じゃ、駄目だね。
孤独を受け入れて得た自由と自分の世界を信じて挑戦したことを一蹴されてしまった。
―――――――響かないんだ。悪いけど。
響かないという言葉の意味を静はその時は考えられなかった。
駄目だね。という、否定の言葉が静を支配して、歌を歌うことを止めてしまったのだ。
しかし、奏司に出逢ってから、――響かないんだと云われた言葉をよくよく考えるようになっていた。
石渡プロデューサーを動かしたのは、彼の歌にそれがあったからなのだと……静は思う。

「あんたが結婚ねえ」
日本に帰国しているという高遠紅美子に、メールで連絡をしたら、一度逢わないかと返信がきた。時間を作って彼女の指定するレストランに足を運んだ。
「あんたも、あたしと同じで、自分の世界を求めてるもんだと思ったんだけどね。その代償に、世間様がいう幸せとか家族はいらないタイプ」
相変わらずな口調。
そして美貌。
60は超えているだろうに、20歳は若く見える。服も、メイクも、アクセサリーも。洗練されているとはこのことかと、つくづく想う。
どうやったらこの域に達することができるのか。
女性に美しさを売る仕事なのだから、オーナーの自分が醜くてどうするのだという持論は確かに頷ける。
それにしても、同年代の女優よりも下手をしたら上回っているところが、すごい。
「あんたは子供の頃に、一度捨てたのよ、家族の絆を。作っていけるの? いままで一人で自由にやってきたのに? 綾子のように、自分の意見を通して他人を振り回すのも、振り回されるのもの嫌なあんたが。家族って、多かれ少なかれ、それがあるわよね。仕事にもあるけれどそれは別よ、だって銭になるもの。家族は金にはならないわ」
「ええ、そうですね、それは確かに」
「別に反対してるわけじゃないの、心境の変化を、訊いてみたいだけ」
「私の歌は響かないので、駄目だったそうです」
―――――――響かないんだ。
「最初は駄目という言葉に、プライドもあり、存在自体を全否定されたみたいで落ち込んだんです。叶わないなら、もう関わらない方がいいかなと、一瞬思ったんですが、情けないことに未練もあったし、見極めたくて、マネージャー業を選択しました。歌手として生きていく人々と、自分の差を知りたいと思いました。自己表現の世界なのに、自分のどこが駄目なのか」
紅美子は、ワイングラスを口にして、黙って静の言葉を待った。
「最初は技術とか、そういうところかと思っていたんですが、最終的には表現力の無さだなと、彼に逢ってわかりました」
―――――――私の歌は響かない
「自分の世界で満足していれば、他への影響力なんかないことを」
自己満足は、周囲への感動を生み出さない。
「彼は、自分の世界観だけではなく、あるんです、他への興味とか、大きく受け入れる包容力とそしてそれを理解して、自己表現に変換していける力がある。歌に限らず、すべてにおいて興味なさそうなことも、実は知りたがるし、求めたがる」
―――――――その姿勢が歌を響かせる。
「そんな深さが、彼にはあって、私にはないものだと、気がつきました」
真っ直ぐ静は紅美子を見つめる。
「昔のように逃げ出さないで、今なら、全部、受け入れられそうな気がする」
静の顔を見て、紅美子は微笑む。
「あんたにそう云わせるまでの男。会ってみたいわ」
「紹介しますよ、お時間が合えば……というか、以前S社のデジカメのCMソング担当したました。聞き覚えないですか?」
「神野奏司だっけ? いいわね、ウチのCMで使っても」
「ありがとうございます」
「高いの? ギャラ」
「そこそこに」
「そうか。親戚価格でお願いしてみよう……じゃ、乾杯、静、体調悪くても、一口ぐらいならいい?」
静は紅美子とグラスを重ねた。
 
翌日。
出勤した静は、上司のデスクの前に、退職願いの文字を書いた白い封筒をおもむろにおいた。
上司である彼は、まなじりをあげて、静を睨むように見つめる。
今まで仕事上で、ぶつかり合ってきた人物である。
それを見ると、ちょっと話そうと、静を会議室に呼び出した。
「何だコレは」
「退職願です」
「お前嫌がらせか? このくそ忙しい時に」
じろりと静の左の薬指に視線を走らせる。
「女子社員どもがギャースカ騒いでいたが、なんの冗談だろうと思ってたのに。『結婚するから辞めます』か? ふざけんな!」
ポケットからタバコを取り出して、火をつけようとするが、静が云う。
「タバコはやめていただけますか?」
「おまえが俺に禁煙すすめるほど偉いのかよ」
「子供にさわります」
藤井はライターを点火しようとしてた指を止めた。
「避妊の仕方も知らない女子高生とかじゃねーだろうが、何だそれは」
相変わらず口が悪いなと静は思う。
藤井は、はあああっと深い溜息をついて、がっくりとうなだれた。
「お前なら、俺の後釜になってもいいかと思ってたのに予定パーじゃねえか。くそっ」
「……」
「で、式は?」
「しません。入籍だけで」
「そんなでかいダイヤを贈ってて、式を挙げられない甲斐性無しじゃねーだろ」
「会社の為にはそのほうがいいかと」
「……会社? お前……まさか」
「相手は神野ですから」
「てめえ! 業界じゃタブーだろ! ふざけんのもいい加減にしろ!!」
藤井は一喝するが、静は一礼する。
「まったく、普通は発つ鳥跡を濁さずだろ! 後ろ足で砂かけやがって!」
「……申し訳ありません」
「まったくだ、ああまったくだよ! 畜生! 相手が神野なのは嘘じゃねーだろーな」
「はい。でも、本人には妊娠の旨は伝えてません」
藤井はどすんと会議室の椅子に座る。
「なんだ後ろめたいのか、指輪もらっておいて、逃げる気じゃねーだろーなー。男に責任も取らせない可愛げのなさは仕事だけにしろよ」
「ちょっとはそれも考えましたが、逃げませんよ」
「お前いくつだ」
「31です」
「それで初産か、わかった、もう男の俺にはお手上げの理由だ。受け取るぞ、この退職届け、もうとっとと荷物整理しやがれ! それから!」
「?」
「お前、そのヒールの靴はやめろ」
藤井が静にかけた最後の言葉は、意外な一言だった。
が、今までもそうだった気がすると静は思った。
悪態がひどくても、最後にその一言がある。
だから、今まで仕事ができたのだとそう思った。